お問い合わせ&当サイトの管理人のひとりごと

〇 当サイトについてのお問い合わせは、こちらで受付しております

お問い合わせフォーム

*は必須項目です。

お問い合わせ内容 *
お名前(漢字)*
お名前(フリガナ)*
E-Mail*

上記フォームからの送信が不具合の場合、こちらのアドレスから送信、お問い合わせください E-mail:gorogoro@rosigingahot.com


                        *

〇 当サイトの管理人
 ハンドルネーム : gorogoro(ごろごろ)
「老子」第三十九章に、不欲琭琭如玉、珞珞如石(ろくろくぎょくのごときをほっせず、らくらくいしのごとし)とあり、
福永光司 訳注「老子」の現代語訳に「うるわしく玉のようであることを願わず、ごろごろと石のようにころがるのだ。」とある、
「ごろごろ」から、ハンドルネームをいただきました。
この現代語訳の面白さは、静的な「玉」に対して、動的な「石」をもってきているところだと思います。
老子の「道」とは動的なものなんだよ、と現代語訳が教えてくれていると思います。

                        *

リアルなヤン・ウェンリーはどんな感じだろう?と考えた時、平成30年(2018年)4月5日に亡くなられた高畑勲監督のような感じではないかと思いました。
田中芳樹さんにとって、ヤン・ウェンリーの姿は、宮崎駿監督「名探偵ホームズ」のホームズみたいな感じだそうです。
(田中芳樹 原作、道原かつみ 作画「銀河英雄伝説 英雄たちの肖像 3巻」巻末の対談によります)
そのホームズの足をなげだす「行儀の悪さ」は、宮崎駿監督の盟友、高畑勲監督の姿を連想させます。
また、安保法制にも積極的に反対されていた高畑勲監督の姿勢は、「老子」第三十一章にある、兵は不祥の器(戦争なんて、ろくでもない)との
共鳴を感じます。
ドキュメンタリー「かぐや姫の物語をつくる」から、ホルスの大冒険の時の高畑勲監督のエピソードとして
“みんなが作品をちゃんと分かって作る”という“民主的な作り方”をするので作っているみんなに“熱気”があった、ということが言われていました。
ヤン提督の会議好き、を思い出しました。

                        *

高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を見て、ふと猫のことを考えました。
猫は人間の5倍~7倍ぐらいの速さで命をまっとうします。
猫の10分は人間の1時間ぐらい、猫の1日は人間の1週間ぐらいにあたるというSF的なウラシマ効果の世界の生き物です。
かぐや姫は、あっという間に成長して、その身をまっとうして月にかえってしまいます。
猫の命も、あっという間と感じます。「宇宙時間」にくらべれば人間の命も、あっという間ですけど。

かぐや姫は、その身をまっとうしたけども、その生はまっとうできたのか。
東アジアの辺境にある自然豊かな島国におりてきたはずが、実態は、がんじがらめの島国だった、という現実。
「忘れる」ことは救いではない、ということなのかなと、映画を見て思いました。


                        *

銀河英雄伝説の劇中音楽のショパンの作品の多くは、旧東ドイツのピアニスト、アンドレアス・ピストリウスが演奏しているようです。
そのピストリウスの「幻想即興曲/ショパンピアノ曲集」(2015年リマスタリング版CD)は、選曲が面白いです。
バラードは1番ではなく2番が、ポロネーズは6番ではなく1番が、スケルツォは2番ではなく3番が、それぞれ選ばれています。
曲順としては、鋭めに演奏された子守歌の後に、丸みのある演奏のノクターン9番がくるのが印象的です。
ノクターン9番は、銀英伝の劇中に何度も使われ(9話、13話、19話、等々)耳に残る曲です。
緊迫してくる状況をなぐさめるような使われ方、状況につきすぎないように使われていると思います。

ノクターンというと、youtubeにアップされている、哲学者サルトルが演奏するノクターン6番は、また違った意味で耳に残ります。
サルトルは、ほとんどペダルを使わず演奏しているようで、音の流れよりも、発生した後の音のゆれを楽しんでいるような演奏という感じがします。
例えば、演奏にあたっては、ある人は“真珠がころがるように”と言い、ある人は“もう真珠はやめましょう”と言う、それぞれの演奏なのだと思います。



                        *


100分de名著「カミュのペスト」全4回を見ました。
第4回は、ゲストとして内田樹さんが加わり、カミュのライブの感想を言い合っているような雰囲気になっていて面白かったです。

ペストの到来を喜んでいる密売人コタールに、銀河英雄伝説のフェザーンのルビンスキーのようなものを感じました。
“医師リウーにはペストと戦ってもらう、ただし勝ちすぎてはいけない”コタールはそういった気持ちでペストの推移を見ている気がします。
ペストと連帯する密売人コタール、ペストに対して連帯しようとする医師リウー、ペストによって可視化される構図なのだと思います。

  韓国でセウォル号の沈没事故があった時、船内にいた修学旅行の高校生たちは船が45度以上傾き、乗組員たちが逃げ出した後も、
  なお船内放送の「待機命令」を守り、その多くが溺死(できし)した。
  事件の直後に韓国で教育関係者と会う機会があった。その時、ある高校教師の口から「生徒たちを殺したのは私たちの教育だ」という
  痛ましい自己批判の言を聞いた。

  上位者の命じたことに服従し、自分で行動の適否を判断してはならないと教えてきたのは私たちだ、と言うのである。
  平時はルールを遵守していれば済む。けれども、危機的事態に遭遇した時は、平時ルールを停止させて、非常時対応に切り替えなければならない。
  そういう「生き延びるための知恵」について何も教えてこなかったと深く悔いていた。

  今の日本でも、どういう状況になったら、上の指示や規則ではなく、おのれの直感に従うべきかについては何も教えていない。
  生き延びるための知恵を教えていない。
  (「AERA」2018.7.2 №30 内田樹のコラムより)

どういった状況が「ペスト」なのか。
そして「ペスト」に遭遇した時にクリアカットな「上の指示や規則」で動くのではなく、“ためらい”モードに入ることの重要性。
内田樹さんが言われた「自分の身体が持っている本来的な生物としての直感」という、本来的なところに復帰できるかどうかが生死を分けるということ。
そういった言葉にならないことを言葉で伝えようとしたカミュと、「引き際」や「復帰」について伝えようとした老子の言葉は通じていると思いました。



                        *


「ジブリの大博覧会」を兵庫県立美術館で見ました。
よかったのですが、三鷹の森ジブリ美術館にある「トトロぴょんぴょん」のような立体ゾートロープ(回転パラパラ漫画)があれば、
もっとよかったのになと思いました。

「トトロぴょんぴょん」は、止まっているトトロや猫バスとかが盤の回転とともに生命が吹き込まれたように動きだす、動くことの楽しさを見せてくれる、
そして宮崎アニメの楽しさはこれなんだと教えてくれる展示だと思います。

私が小学生のころ、近所に少し大きめの本屋がありました。その本屋の店頭には小さなテレビモニターがあり、天空の城ラピュタのデモ映像のようなものが
無音で延々上映されていました。30年以上前の話です。
そのラピュタの無音映像を、小学生の私は、引き込まれるように見ていたのを思い出します。

ラピュタの無音映像から感じていたものは、ゾートロープを見る楽しさと同じものだったと思います。
逆に言えば、ラピュタはゾートロープ的楽しさの結晶のような作品だと思います。
そういう意味で、ラピュタは宮崎アニメの最高峰なのだと思います。

天空の城ラピュタのDVDの音量をゼロにして、日本語字幕をONにして、例えばショパンのCDをかけながら本編を見ると
ゾートロープ的な宮崎アニメの楽しさを、動きの楽しさを、よく味わえると思います。

話はかわりますが、DVD「ジブリの本棚」のナレーションを羽佐間道夫さんがされているのはいいですね。
シェーンコップの不良中年が悔い改めて児童文学を語る、というふうに聞こえて、感動的ですらあります。



                         *


映画「港町」を見ました。
想田和弘監督の観察映画第7弾、舞台は牛窓です。

「歩留り」と「歩減り」という原価計算の言葉で言うと、カメラは自然の流れとして漁からはじまった魚の「歩減り」を追いかけることになり、
その追いかけた先からネコがたくさん出てくるという、そういった展開がすばらしいと思いました。
「歩減り」の先にネコの楽園が広がっている。
陸游の詩の世界とも通じている気がします。
  山重水複疑無路 (いくつもの山と川を経て、もう路がとだえたと思ったその先に)
  柳暗花明又一村 (柳が暗く茂り、花が明るく咲く、一つの村と出会ったのだ)

「家族に乾杯」という番組でも牛窓が舞台になっていました。
こちらは「日本のエーゲ海」「夕陽100選」「太陽光発電で8万世帯に供給」という牛窓の「歩留り」ばかりを追いかけている気がしました。
そういった「生産性」の高い町、牛窓での「ぶっつけ本番」の旅という・・・。

「港町」には福祉の「陰」の側面、「Peace」には福祉の「陽」の側面がえがかれていると思いました。
  万物は陰を負いて陽を抱き、冲気(ちゅうき)以て和を為す (万物は陰陽を含み、相互に作用しあって調和を保つ)
という「老子」第四十二章の言葉のように、「港町」は「Peace」とで一つの調和を保っているように感じました。

世の中の「俯瞰圧力」は高いと感じます。
懸命に働く人は「経営マインドをもて」と怒られ、「地球儀を俯瞰」している人は外交能力が高いと評価される。
仕事の実態にかかわらず、得体の知れない「俯瞰目線」が猖獗(しょうけつ)をきわめている気がします。
こういった世相にあって想田監督の「観察目線」の映画は、貴重な存在だと思います。




                          *


2018年8月17日の金曜ロードショーで「となりのトトロ」が放映されました。
生活空間ではゴミでしかないドングリが、宝石のように輝いて見える女の子たちが、
そう見える女の子たちであればこそ、不思議な生き物に出会えるという話。

夏目漱石の「草枕」が大好きという宮崎駿監督が生み出した、トトロの森というユートピアは奇跡の世界だと思います。
半藤一利・宮崎駿「腰ぬけ愛国談義」を読むと、「草枕」という桃源郷について語られています。
夏目漱石のノイローゼがいちばんひどかった時の作品と言われる「草枕」を少し読みたいと思います。

  苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。
  余も三十年の間それを仕通して、飽々(あきあき)した。
  飽々(あきあき)した上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。
  余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。
  俗念を放棄して、しばらくでも塵界(じんかい)を離れた心持ちになれる詩である。
  (夏目漱石「草枕」より)

そして、陶淵明の詩の「南山(なんざん)」や、王維の詩の「幽篁(ゆうこう)」について語られた後、

  しかし普通の小説家のように
  その勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、
  人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。
  動いても構わない。
  画中の人間が動くと見ればさしつかえない。
  画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。
  平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、
  こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。
  (夏目漱石「草枕」より)

転校した先で、サツキに友だちができたところは「詮議立て」しない。
そして、「草枕」に、宮崎駿監督が2Dにこだわっておられる系譜を見るような気がします。

「となりのトトロ」がユートピアとすれば、「千と千尋の神隠し」はディストピアになるのでしょうか。
トトロの「ドンドコおどり」は、狂言でいうと三番叟(さんばそう)なのだろうと感じます。
「となりのトトロ」は詩の世界なのだと思います。




                           *



NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」を見ました。

情感豊かな番組で、考えさせられました。
陸軍士官学校を出たエリートというのは、甲子園からプロ野球に上がり狭い視野のままいきなり何千万もの年俸がついてしまう感じだろうと思います。
確かに「天才」なのかもしれませんが、こういった「天才」に何かを相談すると、
話を聞かない、自説をまくしたてる、そういった光景が目に浮かびます。
そういう「天才」が、何万もの将兵の命がかかる作戦を立案してしまう。悪夢だと思います。
「天才」は、観察や傾聴と対極にある人物だと思います。
銀河英雄伝説で言えば、フォーク准将に胆力がついてしまうと、そういった「天才」ができあがる、と思いました。

その「天才」に、対立しているようでいて結局一体となって動いている人たちは、「知らない」人たち。
「敵を知らず、己を知らず」「私の関する限りじゃ知らない」「全く知らない」
「知らない」のオンパレードは不気味と感じました。
「知」と言えば、老子の「知」に「たるを知る」という、引き際の「知」があります(「知足」の知)。
どういったタイミングが引き際かは、経験で磨かれた直感、経験によらない本来的な生物としての直感に復帰する、という直感によって知る。
「知らない」と言って「知」を手放してしまうと、引き際の判断という「知」まで手放してしまうと思います。
それは生物として死ぬことを意味するのではないか・・・

「ゆるふん」の上官、「天才」参謀、「知らない」人たち、「責任なき戦い」の構図がよくえがかれていると思いました。




                         *


岩合光昭さんの写真展
 世界ネコ歩き(丹波市立 植野記念美術館)
 世界ネコ歩き2(大丸 京都店)
 ねこ(松坂屋 高槻店) 
を見てきました。
どの写真展のネコも、その土地に日常いるネコが、日常を生きる幸せそうな写真になっているようで、
ネコと人間との関係もそう悪くないのだろうと想像できて、ホッとする写真展と感じました。
8月の展示会ということもあり、戦争中に「供出命令」で毛皮にされたネコの歴史をふと考えました。

「赤毛のアン」で、クィーン学院に行ったアンが、自分の心細い気分を “よその屋根裏に紛れ込んだ猫みたいな気分” と言っていました。
幸福感のある日常から切り離された不安な気分がよくでていると思います。
ネコにはどこか孤児の面影があって、幸せそうに暮らすネコを見ると、それだけでこちらも幸せになるような気がします。



「孤児」というと「雨月物語」を書いた上田秋成が思い浮かびます。

  「自像筥記」には「四歳母亦捨」という言葉が見える。
  もちろん秋成は捨て子ではなく、実際には養子に遣られたものだが、
  自分は捨てられた子供であるという認識、あるいは孤児であるという意識を、
  秋成は長く抱き続けることになる。
  (長島弘明「上田秋成 新潮古典文学アルバム」より)

「赤毛のアン」で言えば、ジョーシー・パイのような人がいて「あなたは孤児みたいなもんよ」と
上田秋成に言い続けたのかもしれません。
体験と言葉の合わせ技で、記憶や認識は定着していくものだと思いますから。

「雨月物語」の蛇性の婬に出てくる豊雄(とよお)には、孤児感覚がよく出ていると思います。
豊雄は、次男であり、家の厄介者であり、無用者です。
ちなみに長男の嫁を内嫁、次男の嫁を外嫁、と言ったりしますね。
豊雄は、生まれながらの部外者という感じだと思います。
関係のない人、と言っていいかもしれません。

その豊雄は、結果的とはいえ、盗まれて誰も見つけることができなかった「神宝(かんだから)」を
見つけることになります。しかし、罪は免れないとして牢屋にほうりこまれてしまう。

トカゲのしっぽのような人生だな、と思います。


「雨月物語」は、高田衛 稲田篤信 校注の、ちくま学芸文庫版がいいと思います。
現代語訳を読んで、評を読み、原文、語釈と読み進んでいくと「雨月物語」がわかった気持ちになります。
「雨月物語」を校注者に読んでもらっている、という感じがする本です。

朗読では、河合隼雄先生の談話解説が入った、新潮CD5枚組がいいですね。
「人間が生きているということは、自分の周りのものとすべて関係がある」
と河合先生は言われます。
つまり「関係」がないということは、その分だけ「生きて」いない、ということになるのだと思います。
あれも関係ない、これも関係ない、知らんし、関係ないし、という「事実」しかない状態から、
私の「関係」を見いだすには「物語」が大事ではないか、という問いが冒頭で語られます。

談話解説の河合先生は、貧福論の「黄金の精霊」のように、「物語の精霊」として話をされているように感じます。
ということは、河合先生は、村上春樹「海辺のカフカ」にでてくる「カーネル・サンダーズ」にもつながるということでしょうか。

  「それにおじさんはカーネル・サンダーズの格好に、キャラクターがうまくあっているような気がするよ」
  「私にはキャラクターなんてものはない。感情もない。『我今仮に化(かたち)をあらはして話(かた)るといへども、
   神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮(こころ)あり』」
  「なんですかい、それは?」
  「上田秋成の『雨月物語』の中の一節だ。どうせ読んだことはあるまい」
  「自慢じゃないけどありませんね」
   (村上春樹「海辺のカフカ」第30章 より)

武富健治「漫画訳 雨月物語」は、仏法僧がいいです。
仏法僧の1コマ目「太平の世」の絵として、さりげなくネコがコマの真ん中を歩いています。
よく「太平の世」を表していると思います。そして、私も「修羅の時」に、しょっちゅう巻き込まれている気がします。
夢然が、ちびまる子ちゃんの友蔵さんの雰囲気なのもいいです。
友蔵の心の俳句のように「鳥の音も 秘密の山の 茂みかな(とりのねも ひみつのやまの しげみかな)」と、夢然が詠っていたのを、
紹巴に目をつけられ、しどろもどろになる様子もいいなと思います。
ところで、友蔵さんの初代声優は、ヤン・ウェンリーの富山敬さんでした。

「漫画訳 雨月物語」で、あれっ?と思ったのは、菊花の約のラストに近いところでの儒学者の左門のセリフ、
「ただ保身と栄利にのみ走る きさまの士(さむらい)らしからぬふるまいは」
というところです。
「保身」は儒学の経典「詩経」の明哲保身からきている言葉で、相手への賛辞を意味しますが、
ここでの「保身」は、相手を非難するように使われています。
「そういうきさまは、儒学者らしからぬ、ものいいだな」と丹治がクギをさしたら、左門はどう返事をするのか。

「雨月物語」は面白いと思います。


                         *



映画「赤毛のアン 初恋」を見ました。
2018年10月は、映画に、Eテレに、「赤毛のアン」がもりあがっている気がします。
例えば、ユクスキュルの「環世界」、神谷美恵子の「心の世界」、河合隼雄の「物語」、これらの言葉は、それぞれの関係性の世界があることを
教えてくれていると思います。
そういう意味で「赤毛のアン」の世界も、それぞれに演出され、それぞれに映像化・指南される、ということになるのだと思います。

  なぜ『赤毛のアン』が好きなのか?
  と、聞かれたら、
  「ものすごく面白いからだ」
  と答えるしかない。
  『赤毛のアン』という物語に、人智を越えた大事件は起こらない。
  そこにあるのは、平凡な私達の誰もが体験し得る、日常のドラマだけである。
  それでいて、何故こんなにドキドキするのか。
  それは、アンという女の子が、とびきり豊かな感受性を持っているからかもしれない。 
  アンは孤児である。幼い頃から、貰われた家で三組の双子の世話に追われたり、孤児院暮らしをしたり、
  むしろ、マシュウ、マリラの独身兄妹の家に貰われてくる以前の境遇の方が、かなりドラマチックである。
  アンは、生まれて初めて、定住する家を得て、「普通の子どもの日常生活」を手に入れる。
  (徳間アニメ絵本「赤毛のアン」作品解説 高橋留美子より)

「日常のドラマ」という意味では「めぞん一刻」もすごい物語と思いますが、「赤毛のアン」は、
流浪と言ってもいい生活を送ってきたアンを一方で想像させながら、定住するアンの生活をえがくことで、
日常の陰影が濃くなる、それが物語の面白さの一つになっているのだと思います。

どの演出の「赤毛のアン」がすきかとなると、私は、やはり高畑勲 演出の「赤毛のアン」になってしまいます。
演出の高畑勲氏と、キャラクターデザイン・作画監督の近藤喜文氏との、試行錯誤によってつくられたアンのキャラクターもいいです。

  僕はアンのキャラクターに関しては、それがどのようなものでなければならないか、よく分かっていたような気がするんです。
  パッと見て変わった顔でなくてはならない。リンド夫人が言うように、変わった顔をしていて、それでいて目ばかり大きくて、
  骸骨のように痩せていて。でも、そういうパッと見て強い特徴がありながら、単なるデザインではなく、ちゃんと動画が動かせる
  血の通ったキャラクター、しかも、原作通り、大きくなったら美人になる骨格の顔でなければならないんです。(…)
  つまり、単に変わった顔ではなくて、話の中で時とともに美人になっていくキャラクターとして描かなければならない。
  これは至難の技ですよね。でも、その難しい要求に近ちゃん(近藤喜文氏)はよく応えてくれました。
  (「赤毛のアン メモリアル・アルバム」 河出書房新社 高畑勲監督へのインタビューより)

「赤毛のアン」のオープニングのイメージボードは宮崎駿氏がかかれたそうです。

もし、はじめて「赤毛のアン」を見る人にすすめるとすれば、DVD「赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道<劇場版>」がいいと思います。
高畑勲監督が、カナダ大使館での試写会で行ったトークショーの映像特典がついているのもいいです。


高畑勲 演出「赤毛のアン」の名場面はたくさんありますが、
第40章 ホテルのコンサートで、アンがアンコールで朗読した詩が心に残っています。
「あなたの小さな胸に小川をお持ちですか」ではじまる、エミリ・ディキンスンの詩です。
アンの声の山田栄子さんのすばらしさ、すきとおった感触のする詩が、すきとおって聞こえてきます。


以下は、ディキンスンの詩の全文になります。

--------------------------------------------------------

  あなたの小さな胸に小川をお持ちですか
  内気な花が風に吹かれ
  頬を赤くそめて鳥が水をのみに訪れ
  影が揺れそよぐ場所を-

  どんなにか静かに流れてゆくので
  誰も小川があるなどと知らないのです
  だけどあなたは一口生命の水を
  日ごとそこから貰っているのですよ

  ええ 三月には可愛いい小川に気をつけて下さい
  河があふれるときですから-
  雪が丘を急いでかけ降りて
  橋がよく流されるのです

  そのあとは八月でしょうか
  牧場がからからに乾くころには
  忘れないで下さいね
  この可愛い生命の小川が燃える正午に干あがらないように-

  (エミリ・ディキンスン、中島完 訳「続自然と愛と孤独と」より 86)


  Have you got a Brook in your
  little heart,
  Where bashful flowers blow,
  And blushing birds go down to
  drink -
  And shadows tremble so -

  And nobody knows, so still it flows,
  That any brook is there,
  And yet your little draught
  of life
  Is daily drunken there -

  Why - look out for the little brook
  in March,
  When the rivers overflow,
  And the snows come hurrying
  from the hills,
  And the bridges often go -

  And later, in August it may be,
  When the meadows parching lie,
  Beware, lest this little brook
  of life,
  Some burning noon go dry!

 (「Emily Dickinson Archive」F94A - Have you got a brook in your little heart )

--------------------------------------------------------

「little heart」と「little brook」が静かにシンクロする生命の風景なのだと思います。
「誰も小川があるなどと知らない」しかし、確かに関係している。
「赤毛のアン」の最終章にも「しかし、たとえ私の足もとにしかれた道がどんなに狭くとも、その道にはきっと静かな幸せの花が
咲いていると思います」という、アンと花との静かな語らいがありました。
こういった静かな関係は、谷崎潤一郎「陰翳礼讃」に出てくる、京都や奈良の寺院のトイレにも感じます。

  私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、
  そうしてしかも掃除の行き届いた厠(かわや)へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難みを感じる。
  茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。

  それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、
  廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、
  ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。

  漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であると云われたそうだが、
  その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、
  恰好な場所はあるまい。

  そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に 清潔であることと、蚊の呻(うな)りさえ
  耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。
  (谷崎潤一郎「陰翳礼讃」より)

この心と場所がつながる静かな風景は、
「谷崎万華鏡」で、高野文子さんが落ち着いた雰囲気のマンガにされています。

  ある日のこと、近藤さんは、寡作で知られる漫画家・高野文子の短編「奥村さんのお茄子」(『棒がいっぽん』マガジンハウス刊・所収)の
  あらすじを、ゆっくりと時間をかけて説明してから、言いました。
  「自分が描こうとしているものが、ようやくわかってきたような気がするんです」
  ある時ある場所で、一瞬すれ違い、別れた人々のしぐさのなかに、確かに存在していた個性のきらめき、その生命のあたたかさ-
  (近藤喜文 画文集「ふとふり返ると」より)

「赤毛のアン」の後、「名探偵ホームズ」「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」「もののけ姫」の作画監督、「耳をすませば」の監督、をされた
近藤喜文氏の感性が「赤毛のアン」の世界に生きていると思います。



                        *


アンの物語を考えていると、アンナの物語も考えてしまいます。
映画「思い出のマーニー」について思ったことを書きたいと思います。

「内側の人間」と「外側の人間」がいて、杏奈は自分を「外側の人間」と考えます。
ただ、けっこう「外側の人間」は、それはそれで「外側の人間」どうしで集団を作ったりします。
私たち、いいこちゃんになれない「外側の人間」だから~、というような感じで。
杏奈は、内側にも外側にも属さない、属せない「境界の人間」なのだろうと思いました。

杏奈が住んでいる団地が象徴的だと感じます。
扉の向こうがすぐに外側、内側と外側を隔てているのは扉という一本の境界線、その家に住む杏奈はたびたび喘息の発作をおこす、息が苦しい。

  心と体を一本の境界線によって区別するのではなく、境界地帯の存在を考えてゆく方が賢明なのではなかろうか。
  とすると、その領域を何と呼び、いかにして研究するのか、という問題が生じてくる。
  これがまた、なかなか一筋縄ではいかない問題である。それは、領域または地帯であるとしても、われわれが心と体を
  分離してきたのと同様の方法で、領域を限定できるようなものとは考え難いのである。
  (河合隼雄「生と死の接点」現代と境界 より)

杏奈には「境界線」ではなく「境界地帯」が必要なのだろうと感じます。
「線」にしか居場所がない生活は、つらいと思います。スケッチブックの中の「線」の世界。
そして杏奈は転地療養をきっかけに、しめっ地屋敷という「境界地帯」、つまり「私の庭」を獲得することになります。

  つまり、言ってみれば、心の扉が開いて、違う世界、“それ”の世界に入っていったわけです。
  入っていったのだけれど、今までみたいに恐ろしい世界ではなくて、むしろこれは、すばらしい庭として出てくるのです。
  庭というのもいいですね。庭は自分の敷地内だけれど、家の中とは違う。
  (河合隼雄「こころの読書教室」私と“それ” より)

扉があって、門があって、その間に庭がある。
庭は自分の敷地内とは言っても、扉の内側とは違う世界。
しめっ地屋敷は、杏奈の「現実の庭」であり、
その「庭」を中心にした出来事は「他人の庭」での出来事ではなく「私の庭」での出来事だということ。
杏奈の「心の庭」と共鳴しているということなのだと思います。

境界地帯というと、銀河英雄伝説のイゼルローン要塞が思い浮かびます。
帝国と同盟の境界地帯であり、そこは無数の屍(しかばね)によって埋めつくされる激戦地になります。
ただし、ヤン・ウェンリーにとっては帝国と同盟の谷間にある居心地のいい「わが家」でもあります。
境界地帯だと思っていると、フェザーンの方から帝国が攻めてきて、イゼルローン要塞は、民主主義の最後の砦になったりもします。

杏奈は境界地帯での命の危険をくぐりぬけ、現実と和解していくようになります。

  世の中には、いろいろなめぐり合わせがあるのだ。そして、不思議なことに、もっとも悪いめぐり合わせのなかに生きてきたようなアンナは、
  今やもっともめぐり合わせのいい生活のなかにいるように思われる。アンナとマーニーが「めぐまれている」ことについて、
  お互いに話し合ったように、恵まれている子、いない子を判断することも実に難しいことなのだ。
  (河合隼雄「子どもの本を読む」J・ロビンソン『思い出のマーニー』より)

「聖書」に受胎告知という場面があります。天使が受胎の事実を告知し、マリアがその事実を聞くという場面です。
マリアはどんな顔をして告知を聞くのか、ふつうの顔では聞けないと思います。その一方的な、非対称な関係の場面は、さまざまな絵になっているそうです。
かしこんで承っているマリア、聞いてないのではないかというマリア、目があらぬ方を見ているマリア(急に、医者にガンを告知されたような・・・)
すばらしい目で聞いているマリア、「あらそう」という感じで聞いているマリア。

  ところが、受胎告知を見ていて思ったのは、そういう告知を受けているマリアのほうがあとで昇天するのです。
  そういう関係だったのが、あとでは完全に逆転するといってもいいのではないか。
  (河合隼雄「こころの最終講義」物語と心理療法 より)

おばちゃんが、杏奈を育てるのに自治体からお金をもらっていることを杏奈に告知する場面があります。
その後、そこで見せられた写真により、すべてがつながり、
杏奈は、反対に、おばちゃんに告げなくてはいけないことができる。
この最後の場面がすばらしいと思いました。
告知する側と、告知される側という非対称で物語を終えるのではなく、ここで、おばちゃんと杏奈は対等に近い関係になれたのだと思います。
杏奈は「たくさんのこわいもの」をのりこえていける杏奈になったのだと思います。



                              *



ヤヌシュ・オレイニチャク ピアノリサイタル(豊中市立文化芸術センター 大ホール)に行ってきました。
オール・ショパン・プログラムで、特にマズルカがよかったです。マズルカの素朴な左手のリズムがズンズン心に響いてくるように感じました。
「マズルカってこんなにいい曲だっけ?」と不思議な気持ちになるぐらい、よかったです。
オレイニチャクさんは「ショパンの精霊」みたいなかただな、と思います。

マズルカは、13番、14番、15番、21番、26番、が演奏されました。「銀河英雄伝説」10話で、ヤンとユリアンが外食するシーンで流れるのが13番です。
ノクターンは、20番、19番、13番、が演奏されました。「銀河英雄伝説」でおなじみの9番はなかったです。

1部が終わった後の15分間の休憩前に、“ショパンを弾く極意”という質問にオレイニチャクさんが答えました。
オレイニチャクさんによる“ショパンを弾く極意”は「honnête(オネット)」だそうです。
100人いれば100通りの弾き方があり、そこに誠の心(オネット)があるかどうか、というのが大事なのだそうです。

オレイニチャクさんが言われたhonnête(オネット)は、それを実践する人、honnête homme(オネトム)で考えると、
パスカルの「パンセ」が参考になると思います。

  人間は「誠実な人(オネトム)」になる道は教えられないが、そのほかのことならなんでも教えられる。
  だから、その他のことなら、なにか知っていてもそれほど誇りに感じないが、「誠実な人」であることは
  たいへん誇りとする。人間は、ただひとつ自分の教えられなかったことを知っているのを、なにより誇りに思う。
  (パスカル、田辺保 訳「パンセ」断章778より)

“ショパンを弾く極意”は、教えようとしても教えられるものではないんですよ、と教えてくれたのかな、と思いました。

第二次世界大戦の時、ドイツは、ショパンを弾くことも、聞くことも禁じたそうです。ショパンを破壊したそうです。
映画「戦場のピアニスト」で、シュピルマンがドイツ人将校の前でショパンを弾くシーンは、それをふまえて見ると、
ただピアノを弾いただけではないということがわかってきます。

当日、オレイニチャクさんが使用されたピアノはスタインウエイでした。CDになっている1838年製のエラールの音、
みつばちの羽音のような音色とは、また違った音が聞けたコンサートでした。



                                *



映画「ハナレイ・ベイ」を見ました。
村上春樹「東京奇譚集」の2番目の短編「ハナレイ・ベイ」が原作です。
思ったことを書いていきたいと思います。

映画パンフレットのプロダクションノートによると、湾が見えるシーンはすべてハワイのカウアイ島ハナレイ・ベイでの撮影とのことです。
自然の映像がすばらしいと思いました。自然の映像をバックに原作を朗読するビジュアルノベルを作ってもいいのでは、と思いました。

   ハワイ8島のうち4番目の大きさのカウアイ島。面積1,430.4㎢、東京都の区部と市部の合計とほぼ同じサイズ、
   人口は約67,000人。島全体が箱庭のような美しさから別名「ガーデン・アイランド」と呼ばれる。
   (映画パンフレット「ハナレイ・ベイ」プロダクションノート 物語の舞台 カウアイ島、そしてハナレイ・ベイとは? より)

カウアイ島の「箱庭」のような美しさ、そして、そのハナレイ・ベイでサメに右脚を食いちぎられて死んだ十九歳のサーファーの男。
こういったところから、金子兜太さんの俳句を感じました。

   梅咲いて庭中に青鮫が来ている (うめさいてにわじゅうにあおざめがきている)

   その時、選考委員のひとりのアメリカ人がこの句を見て、「この青鮫はトラック島で見ていた青鮫ではないか」と評したそうです。
   これが非常に鋭い指摘でね、わたしも「あッ、そうか」と思わず納得したんです。
   あのトラック島大環礁の外には青鮫が実に多くいました。なぜかというと、そこにはアメリカの潜水艦によって撃沈された、
   日本の艦船が多く沈められていたからです。そこへ青鮫が大群を組んでやってきて、日本兵や軍属の死骸を喰う。
  
   (…)これも不思議なんですが、日本兵の死体を喰いにやってきているというのに、環礁の上から青鮫の群れを見ていても、
   まったく嫌悪感が湧かなかった。その青鮫が、今ちょうど春が来ることを謳歌するわたしの気持ちの中に出てきた。
   いのちが満ちた、いのちの代表者として青鮫が出てきたのです。
   (金子兜太「他界」より)

この「青鮫」がでてくる「庭」は、金子兜太さんのご自宅の庭だそうです。
いのちが満ちてくる「庭」からは、「庭」という境界地帯のもつ力、あやうさ、「自然の循環」を感じます。
そして、この「庭」は、金子兜太さんの「産土(うぶすな)」とも関係してくるようです。

   熊谷(くまがや)という、この土の上に妻のおかげで住めるようになって、で、現実にも妻は、私たちの郷里が秩父ですから、
   秩父の草や木をいただいてきては、ここ(庭)へ持ってきて植えるわけですよ。
   そうしているうちに、ああ、自分が少年期から青年期にかけて育ったのが秩父であったなと、
   この秩父の土のおかげ、その土の上に住んでいる人々のおかげで、現在の自分があるんだなということもわかってきてね。
  
   産土(うぶすな)という言葉を(…)私は、秩父が産土であると、
   そういうふうに言うようにもなり、はっきり思うようにもなって、ますます自分が安定してきましたね。

   (…)つまり土というものがね、やはり大事なんだと。
   日常を大事にふみしめるということは、土を大事にしているという考え方と同じなんだと、
   そう思うようになったんですよ、これは大収穫なんですね。
   (DVD「生きもの 金子兜太の世界」より)

庭があり、産土を思うようになり、土を大事に考えるようになる。

これは箱庭療法とも共鳴していると思います。

  河合: ただ、おもしろいのはね、あれ(箱庭)はヨーロッパで考えられたわけですね。
      とくに僕が教わった人(ドラ・カルフ)は、ユングの考え方をそこに入れていったんです。
      それで「サンド・プレイ(箱庭)」というものをつくっていった。
      
      ところがそれがアメリカに導入されていったとき、スタンダーダイズ(標準化)しなければいけない、と。
      それで砂を取り去ってしまうんですよ。(…)アメリカでは、何でもスタンダーダイズして、木は何本とか、
      人は何人とかやってね。それでテストを作るんですよ。「ワールド・テスト」。

      これはシャルロッテ・ビューラー(青年期の心理的発達で知られる臨床心理学者)がつくるんですけれど、
      全然、だめなんです。つまり、まさに「クオリア」を取り去ってしまっているわけですよ。

      (…)だから僕はね、ヨーロッパの箱庭をアメリカに輸入するときに、土と切れたからだめなんだ、というんです。
      土というのはまさに「クオリア」ですよ。土と切れたものとして輸入したからだめになった。
      (河合隼雄、茂木健一郎「こころと脳の対話」より)

土という、地上と地下の境界を大事に考えることによって、「箱庭」に、いのちが満ちてくるのだと思います。

門と扉の境界としての庭、地上と地下の境界としての土、境界が交差するこの場所では不可思議なことがおこります。

   春の庭亡妻正座して在りぬ (はるのにわぼうさいせいざしてありぬ)

金子兜太さんの句になります。

金子兜太さんの「庭」では、亡くなられた奥様が、ちょこんと正座しておられる。
ハナレイ・ベイの「箱庭」では、死んだ片脚のサーファーの男が、じっと波を見ている。


映画パンフレットの内田樹さんのコラムが面白かったです。

   『ハナレイ・ベイ』を含む『東京奇譚集』は「村上春樹版『雨月物語』」として読むことが可能だろうと私は思っている。
   (映画パンフレット「ハナレイ・ベイ」内田樹のコラム より)

そう言われてみると、村上春樹「東京奇譚集」の3番目の短編「どこであれそれが見つかりそうな場所で」で「私」は「雨傘」のようなものをさがしている。
上田秋成「雨月物語」の7番目の短編「蛇性の婬」で豊雄は女に「傘」をかす。確かにそう読むことが可能かもしれないと思います。


上田秋成と言えば「雨月物語」の後に「春雨物語」を書きます。
その上田秋成と交流があった与謝蕪村の句に、

    春雨やものがたりゆく蓑と傘 (はるさめやものがたりゆくみのとかさ)

があります。

   かすかな春雨が平和に降っている。畑帰りらしい蓑を負った人と当たり前のなりで傘をさした人とが、
   並んで何かを親しく語りながら通ってゆく。
   (中村草田男「蕪村集」より 上記俳句の散文訳)

春雨と物語の間から「平和」を読み取るこの散文訳は、すばらしいなと思います。
つかの間にある静かなあたたかさを、この句から感じます。
この句は、高畑勲監督「ホーホケキョ となりの山田くん」の、あたたかみのある場面で使われていました。




                             *



文部省 著「民主主義」角川ソフィア文庫、を読みました。
1948年から1953年まで中学・高校で用いられた民主主義の教科書だそうで、文庫の本編ページ数は443ページです。
感想を書きたいと思います。

  民主主義は、決して単なる政治上の制度ではなくて、あらゆる人間生活の中にしみこんでゆかなければならないところの、一つの精神なのである。
  それは、人間を尊重する精神であり、自己と同様に他人の自由を重んずる気持であり、好意と友愛と責任感とをもって万事を貫く態度である。
  この精神が人の心にひろくしみわたっているところ、そこに民主主義がある。
  社会も民主化され、教育も民主化され、経済も民主化される。
  
  逆に、この精神に欠けているならば、いかににぎやかに選挙が行われ、政党がビラをまき、議会政治の形が整っても、それだけで民主主義が
  じゅうぶんに実現されたということはできない。
  
  だから、ほんとうの民主主義は、宮殿や議会の建物の中で作られるものではない。
  もしもそれが作られるものであるとするならば、民主主義は人々の心の中で作られる。
  それを求め、それを愛し、それを生活の中に実現してゆこうとする人々の胸の中こそ、民主主義のほんとうの住み家である。
  (文部省 著「民主主義」第一章 民主主義の本質 より)

民主主義は「宮殿や議会の建物」の中では作られない、つまり、民主主義は「宮殿や議会の建物」の外からはじまる、ということなのだと思います。
「民主主義のほんとうの住み家」は「宮殿や議会の建物」の外にいる「人々の心の中」にある、「胸の中」にある。
エミリ・ディキンスンふうに言えば「あなたの小さな胸に民主主義をお持ちですか」という感じでしょうか。
「住み家」というのがいいなと思います。

  エチカ(倫理学)の語源はギリシア語の「エートス ethos」なのですが、ここまで遡るとおもしろいことが分かります。
  エートスは、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処(すみか)を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を
  表すようになり、さらには私たちがその場所に住むに当たってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。
  つまり倫理という言葉の語源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあります。
  (國分功一郎「100分de名著 スピノザ『エチカ』」より)

そもそも民主主義とは、人々の心の中という「住み家」からはじまる、どのように生きていくかという問いなのだと思います。

  人間の社会は人間が作っているのである。
  人間の歴史は、長い世代を通じての、人間の努力と営みとによって築き上げられてきた。
  人間の作った社会の欠陥は、人間の力で是正できないはずはない。
  人間の築き上げてきた歴史は、人間の意志と努力とによって更に向上し、発展していくに違いない。
  このような人間の力に対する信頼こそ、民主主義の建設の根本の要素なのである。
  
  しかも、民主主義における人間への信頼は、英雄や超人や非凡人に対してささげる信頼であるよりも、むしろ、
  ここに住み、そこに働いている「普通人」に対する信頼である。
  
  (…)もちろん、民主主義の下でも、りっぱな人物を選んで、それを国民の代表者とし、その人々の決定に従うということは、
  必要でもあるし、たいせつでもある。けれども、民主主義の国民は、自分たちの選んだ人々に、無条件の信頼をささげるということはない。
  りっぱな人物だと思って選んでも、その人々の行動がまちがっていると信ずる場合には、これに対して公正な世論の批判を加え、
  それをたえず是正していくのは、民主国家の国民の自由であり、権利であり、責任である。そこに国民の主権がある。
  (文部省 著「民主主義」第十七章 民主主義のもたらすもの より)

「ここに住み、そこに働いている」どこにもここにもいる「普通人」の力に対する信頼からはじまるのが民主主義だということ。
そして、選挙によって選ばれた代表者の行動が「まちがっていると信ずる場合」それをたえず是正していくところに、国民の主権がある。


文部省 著「民主主義」は大事なことが書かれた本だと感じます、ただ、そうは言ってもページ数が多いです。
もし、どれか一章だけ選んで読むとすれば「第十三章 新憲法に現れた民主主義」がいいのでは、と思いました。

  経済上の民主主義では、適度の自由競争は経済発達の条件として重んぜられる。
  しかし、自由競争の結果として、国民の間にはなはなだしい貧富のへだたりが生ずることは、極力避けられなければならない。
  どんなに経済的に不利な立場に陥った人々といえども、人間として人間らしい生活を維持することができるようにするのは、
  民主主義のたいせつな目標である。
  新憲法の第二十五条が、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」といい、国家が社会福祉増進のために努力すべき
  ことを示しているのは、そのためである。
  (文部省 著「民主主義」第十三章 新憲法に現れた民主主義 より)

ここにも民主主義の大事なことが書かれていると思います。
日本国憲法の第二十五条にある「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、
社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」という、社会福祉増進の国の努力を国民が認めるからこそ、第三十条の「納税の義務」を
国民は納得できるのだと思います。そういった順番、条文の順序にも民主主義が現れていると思いました。




                            *



映画「ボヘミアン・ラプソディ」を、大阪ステーションシティシネマで見ました。
「住む」とか「生きる」とかを考えていたこともあって、映画のなかでのそういうシーンが印象に残りました。

「住む」と「生きる」を分けて考えてしまうと、考えの命が壊れてしまうと思うので、対(つい)にして考えたいと思います。
ものごとには、分けて考えた方がいいことと、対(つい)にして考えた方がいいこと、があると思います。

「住む」で印象的だったのは、フレディ・マーキュリーがエミリーともう一度やり直そうとするシーンでの言葉
  stay with me (一緒に住もう)

「生きる」で印象的だったのは、フレディ・マーキュリーがエイズとわかるシーンでの言葉
  who wants to live forever (誰が欲するのか? 永遠に生きることを)

孤独でどうしようもなくなり「住む」ことを考える、そして、死が目の前に表われた時「生きる」ことを思う、
オレは犠牲者(victim)なんかにならないぞと。

「住む」と「生きる」を対(つい)で考えます。
ですので、今度は「生きる」方から考えてみます。

死が目の前に表われ「生きる」ことを思う、犠牲者(victim)なんかにならないと、しかし、孤独はどうしようもなく「住む」ことを考える、
名前を手がかりにパートナーを探し出す、そういうことでもあるのだろうと思います。

夏目漱石「吾輩は猫である」の「住む」と「生きる」を思い出します。

  世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くて、日に日に油断がならなくなる。
  狡猾(こうかつ)になるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも
  皆事を知るの結果であって、事を知るのは年を取るの罪である。(…)

  この世に生息すべき義務を有して蠢動(しゅんどう)する者は、
  生息の義務を果すために休養を得ねばならぬ。
  もし神ありて
  汝は働くために生れたり寝るために生れたるに非ず
  と云わば
  吾輩はこれに答えて云わん、
  吾輩は仰せのごとく働くために生れたり故に働くために休養を乞うと。
  (夏目漱石「吾輩は猫である」 五より)

住めば住むほど「事を知る」、休まらなくなる、だから、生きていくためには「休養」が必要だということ。

「住む」と「生きる」を対(つい)で考えます。
ですので、今度は「生きる」方から考えてみます。

生きていくには「休養」が必要、しかし、住めば住むほど「事を知る」ので休もうとしても休まらなくなる。

ここで、どこでどうやって休めばいいのか?という問いが立ちあがると思います。
「非人情」への旅、「草枕」への旅が準備された、とも読めます。

そういったことを考えながら映画館を出てキョロキョロします。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」を上映している大阪ステーションシティシネマは、大阪駅の駅ビルの11階にあります。
その14階には「天空の農園」があり、10階には「和らぎの庭」があります。
ここは「バッタくん」の世界だな、と思います。


映画「バッタ君 町に行く」は、アメリカのフライシャー兄弟による1941年製作のアニメーションです。
1941年というと、ちょうど太平洋戦争の年です。
この映画は、アニメーションの動きとしてはすごいけども、物語としてはどうなのだろう、という映画です。

  虫たちが栄光への脱出のようにビルのてっぺんに逃げていくと、そこにいかがわしい庭園がつくられていて、
  日本風の橋が架かっている。そこで夫婦が歌を歌っているという、悪夢のような風景ですね(笑)。
  大抵はそれで薬に手を出すか、アルコールに手を出して身を持ち崩して別れて、というところからドラマはまた始まるわけだから。
  庭園は荒れ果てて荷物置き場になってね。何か前途が見えるような終わり方じゃない。あの終わり方はしっくりしないですね。
  
  (…)やっぱり成功、ポピュラー=お金=満足という考えがアメリカを支えてきた原動力なんでしょう。それがうさんくさいんです。
  だから最後の台詞、「人間が虫みたいだ」と虫たちが上から言っているのは別に文明論的な意味はなくて、貧乏人は下にいると
  思っている言葉ですよね。あれに深い意味はないです。
  (DVD「バッタ君 町に行く」のリーフレット 宮崎駿監督へのインタビューより)

大阪駅の駅ビルに話を戻すと、団地のベランダを拡張したような場所をいろいろと装飾して、
そこに、たくさんの監視カメラ、夏目漱石ふうに言えば探偵カメラを置いて、
さあ「庭」ですよ、と言われても、敷地を効率よく活用しようとしたんですね、という感想になってしまいます。
駅ビルという、人が一時的に通り過ぎる空間を活用するという意味では、それでいいのかもしれません「深い意味はない」ということで。
人は時に、完全なリーダーシップにより、完全な間違いに突き進んでしまう、という言葉が思い浮かびます。




                              *



2019年2月の100分de名著は、オルテガ「大衆の反逆」ですね。
この本とは、学生の時に日本語訳と英訳をウロウロしながら読んで以来のおつきあいなので、なんとなく他人事でない気がしています。

オルテガ「大衆の反逆」の難所は「大衆」の恐さがつかみにくいところだと思います。
「大衆」の特徴が専門家において頂点に達するということ、それがどのように愚劣か、ということと同時に、どのように恐いか、ということ。

  大衆とは平均人である (The mass is the average man)

と第1章に書かれています。
第1章以降にも「平均人」という言葉がでてきます。
この「平均(average)」のイメージをつかむことで、「大衆の反逆」はグッと読みやすくなると思います。

オルテガがよく参照している物理学からのイメージが有効だと思います。

  自然界の現象は熱力学の第二法則に従って、Entropieの増大する方向に進み、
  放置すればいわゆる涅槃(ねはん)に向かい、死に近づいて行く。
  小豆(あずき)一升と米一升とを一緒に入れ、これを揺すると小豆の部分と米の部分とはだんだんに混り合って、互いに区別出来なくなる。
  このように宇宙全体の温度が至るところ平均する時、宇宙の永遠の死が来るのである。
  (寺田寅彦全集 第十五巻「寺田寅彦先生談話会」より)

「平均」の完成 = 永遠の「死」、というイメージです。
平均人が、物事の至るところを平均化していき、ついに永遠の死がおとずれる。

寺田寅彦は、物理学者であり、「吾輩は猫である」の寒月君のモデルであり、夏目漱石の別格の弟子と言われます。
上記文章は、その寺田寅彦が1934年に行った談話会での筆記になります。
オルテガ「大衆の反逆」の出版が1930年です。
この「平均」という言葉が、1930年代の「平均」という言葉の意味世界を構成していると考えていいと思います。

  思想を生みだすこと、つまり意見をもつということは、そのような真理という権威に訴え、それに服従し、
  その法典と判決を受けいれることと同じであり、したがって、共存の最良の形式は、われわれの思想の根拠となる理由を
  議論する対話(dialogue)にあると信ずることと同じである。

「大衆の反逆」第8章からになります。
対話(dialogue)を行わない大衆が野蛮な共存に退化し直接行動を行う、という描写がこの後に続きますが、
それは単に「退化」しているだけではなく、物理的に「平均」に突き進んでいる、「死」へと向かっているのではないか、ということでもあると思います。

  もしある人が二たす二は五である(two and two make five)とかたくなに主張している場合、かれが気違いだと考えられる
  理由がなければ、本当はそう信じていないのだ、ということを確信しなくてはならない。(…)
  かれらの唯一の努力は、自己の運命を回避し、運命の明らかな姿に目をつぶり、その内奥の呼び声に耳をふさぎ、
  自分がそうであらねばならぬ姿と対面するのを避けることにある。
  自分でつけている仮面が悲劇的であればあるほどふざけているのである。

「大衆の反逆」第11章からになります。
この「二たす二は五である(two and two make five)」は「東條首相の算術」を予言しているようです。
現代でいうと「統計不正」もこの発想ではないかと思います。
目をつぶり、耳をふさぎ、いったいどこへ向かうのか・・・ということだと思います。




                          *


100分de名著オルテガ「大衆の反逆」の最終回、締めのキーワード「“熱狂”を疑え」には考えさせられました。
現在の日本は、かわりがいないと思い込ませる、国民に無力感を植えつけることで、政権が維持されていると思います。
そういった状況は「熱狂なきファシズム」と言われたりします。

現在を考えるとして、熱狂がないのに熱狂を疑えとはどういう意味か・・・
おそらく「実在の熱狂」「不在の熱狂」、両方を含めた意味での“熱狂”を疑うということ。
つまり、その時代における“温度”の適正を疑うと考えればいいのだろうと思いました。
現在の文脈で考えると「“冷狂”を疑え」になる気がします。


                          *




映画「バーニング 劇場版」を見ました。
村上春樹の短編「納屋を焼く」が原作です。
強烈な映画だと思いました、イ・チャンドン監督の演出がきいているようです。
思ったことを書いていきます。

この映画の原作は「納屋を焼く」ですが、物語の底に流れているのは「眠り」だと感じました。
海外の読者が村上春樹作品と出会う逆輸入盤の短編集「象の消滅」の、5番目が「眠り」で、8番目が「納屋を焼く」ですから、
映画の演出に影響があるだろうと思います。



  私は私専用の車として中古のホンダ・シティを持っている。二年前に、私はそれを女友達からほとんどただ同然で譲ってもらった。
  バンパーもへこんでいるし、型も古い。ところどころ錆も浮いている。もうかれこれ十五万キロくらい走っている。
  時々、一ヵ月に一度か二度くらいのものだが、エンジンのかかりが極端に悪くなる。いくらキイを回してもエンジンがかからないのだ。
  (村上春樹「眠り」より)

映画で、錆の浮いた車が出てきました。これはひょっとすると、ゆっさゆっさ揺さぶられるのかな、と思います。
「眠り」がこの映画の底流にありそうだと感じます。

  それはたしかに生物学的に見れば不自然なことかもしれない。でもいったい誰が自然について知っているのだろう?
  何が生物学的に自然かなんて、結局のところ経験的な推論にすぎないのだ。
  (村上春樹「眠り」より)

映画で、「自然の道徳」が出てきました。この「自然」は、人間と調和した「自然」だけではなく、もっと破壊的な「自然」を含んでいると思います。
海底火山が爆発して何もなかった海に島ができるような、調和を破るような「自然」でもあると思います。
「眠り」に出てくる「同時存在」は「分離存在」の意味に近い不安定さがあります。「ハナレイ・ベイ」は「自然の循環」でした。

  でもその何かは私の体の中で、ある種の可能性のようにぼんやりと漂っていた。私はそれに名前を与えたかったけれど、
  その言葉は私の頭には浮かんでこなかった。正しい言葉を見つけるのは私の得意分野ではない。たぶんトルストイならぴたりとした
  言葉をみつけることができるのだろうが。
  (村上春樹「眠り」より)

映画で、ヘミが消えた後、主人公の作家志望の青年の前に「ある種の可能性」がたくさん漂います。
主人公はトルストイならみつけられるかもしれない「正しい言葉」「ぴたりとした言葉」をみつけられたのだろうか、どうか、と思います。

  じゃあ、私の人生とはいったい何なのだ?私は傾向的に消費され、それを治癒するために眠る。
  ただのその繰り返しに過ぎないのか?そして同じところをぐるぐるとまわりながら年齢をかさねていくだけのことなのか?
  (村上春樹「眠り」より)

映画で、ソウルでゴージャスな生活をするベンの人生は「消費」と「治癒」の繰り返しのように見えます。
38度線の田舎町パジュで生活する主人公は、結局、そういった「ベンの人生」とは決別しなければならなかったのだと思います。
「ある種の可能性」に揺さぶられながら、そこに向かったのだと思います。決別したけども、それで決別できたのかは・・・

パジュというと、パジュのドキュメンタリー映画祭が思い浮かびます。想田和弘監督の映画「Peace」の影響です。
映画「バーニング 劇場版」を見て、パジュというのは北朝鮮の対南放送のスピーカー音がする、常にここが境界地帯であることを意識させられる
町なんだと思いました。
パジュの映画祭のオープニング作品、「猫映画」としても傑作の映画「Peace」を、あらためて見たくなりました。


                          *


映画「グリーンブック」よかったです。
「思い出のマーニー」にもでてきた、めぐまれている、いない、というテーマが織り込まれていると思いました。
ドクター・シャーリーが、オレンジバードでひくショパンのエチュードOp25-11「木枯し(Winter Wind)」は
選曲がいいな、と思いました。

アンドレイ・ガヴリーロフさんがひく、プロコフィエフのような「木枯し」がすきです。
ショパン生誕150年を記念して発売されたパデレフスキ版ショパン全集のボレスワフ・ヴォイトヴィチさんの「木枯し」はバッハのように感じます。
ショパンがマジョルカへ行った頃に「バッハのショパン版」を計画していたそうなので、そういうアプローチなのかなと思います。

映画「女王陛下のお気に入り」では、シューベルトのピアノ・ソナタD960の第二楽章が効果的に使われていました。
「100分de名著 スピノザ『エチカ』」の第二回では、モーツァルトのロンドK511がいい感じで使われていました。
ここでこれがくるかという、ピアノ曲を違う視点で聞けて嬉しくなります。




                          *



映画「アリータ:バトル・エンジェル」を見ました。
原作は、木城ゆきと「銃夢(ガンム)」です。

ジェームズ・キャメロン監督の演出がどうなのかというより、この映画を見ることができたという感動がまずあります。
私もなんとか生きてきたんだな、という時の流れを感じます。

「銃夢」は大学を浪人していたころ、ビジネスジャンプで連載を読んでいた印象が強いです。
ビジネスジャンプの発売日には、「銃夢」がどうなったかを確認し、「ザビエル山田の愛の泉」に溜め息をつき、「オークション・ハウス」で
男のダンディズムについて考え・・・予備校でビジネスジャンプを広げていた記憶があります。

「銃夢」の登場人物を、鳥山明「Dr.スランプ」にあてはめて読んでいました。
イドは千兵衛さん、ノヴァはマシリト、ガリィはアラレちゃん、そして次々とあらわれるキャラメルマン。
モーターボールはペンギン・グランプリという感じでした。
連載が月1連載になり、人気作品は終わらせないという集英社的な展開になってきたのかと、違う意味でハラハラしながら読んでいました。
ガリィちゃんのことを「性格の暗いアラレちゃん」と言う浪人仲間がいました。

  私はアウトサイダーだ!! (木城ゆきと「銃夢」4巻 FIGHT21より)

と、ガリィちゃんは言います。
コリン・ウィルソン「アウトサイダー」が物語の背景にあるらしい、と思います。
そう思って「銃夢」の単行本を読み返すと、

  ニーチェも言ってるだろ・・・精神など肉体のオモチャにすぎないってな- (木城ゆきと「銃夢」1巻 FIGHT3より)

と、マカクが言います。これは、

  「肉体なるわたしは徹頭徹尾、肉体以外の何ものでもなく、魂とは、肉体のなかにある何ものかの名称にすぎぬ」
  (コリン・ウィルソン、中村保男 訳「アウトサイダー」第五章より)

というフレーズ、ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」からの引用部分を口語的にアレンジして引用したのかな、と思います。
「銃夢」は読みごたえのあるマンガでした。



「銃夢」は1993年にアニメ化されました。
作家の安部公房さんが亡くなられたのが、その1993年でした。
そういった1993年に、私は大学を浪人していました。
高校からくらべると時間がかなり自由に使える、ということも手伝ってとにかく本を読んでいました。
安部公房さんの本を読み、村上春樹さんの本を読み・・・していました。

  だって、仕方がないだろう、事実上おまえの染色体の半分は、私の精液なんだからな。
  (安部公房「方舟さくら丸」17より 1984年刊)

  だって私という存在の半分はお父さんの精子でしょ?見せてあげたっていいじゃない。
  (村上春樹「ノルウェイの森」第九章より 1987年刊)

安部、村上、両作家が「だって」以降に同じようなことを書いている、これはいったい・・・と、当時思っていたことを思い出しました。
いろいろと思い出すのも、映画「アリータ」のおかげだと思います。
あまりにもいろいろと思い出すので、映画自体が面白いのかどうか判断がつかないところがあります。


                         *


コリン・ウィルソン「アウトサーダー」は、引用の宝庫だと思います。
ただ、コリン・ウィルソンは、ちょっと大人ぶっているかなというところがあります。

「アウトサイダー」で、老子の第十五章を引用した後に、

  いつまでも子供であることによって悪の問題を解決するわけにはいかぬのだ。
  (コリン・ウィルソン、中村保男 訳「アウトサイダー」第六章より)

と、老子を「子供」あつかいしますが、これはちょっといただけないところです。

  「アウトサイダー」は、たまたま自分が幸運に恵まれているから世界を肯定するのではなく、
  あくまでも、自分の「意思」による肯定をしたいと願う。
  (コリン・ウィルソン、中村保男 訳「アウトサイダー」第八章より)

そういった「意思」による肯定の例として、
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第29番Op106「ハンマークラヴィーア」の最終楽章が引用されています。
この引用は、すばらしいと思います。

47歳のベートーヴェンは、家族の問題、経済的な問題、そして聴力が非常に悪くなっていくなかで、
彼にとって4楽章形式では最後のピアノ・ソナタ、ハンマークラヴィーアを完成させます。
「意思」によって世界を肯定した、というのがピタッとくる気がします。
この曲は、初期の室内楽的なピアノ・ソナタを経て、後期のオーケストラ的なピアノ・ソナタに到達した、という流れでも言われます。
「僧衣をまとったメフィストフェレス」と言われ、超人的なピアノをひいたフランツ・リストがレパートリーにしていたことでも知られています。

それでは、リストはどんなふうにハンマークラヴィーアをひいたのだろう?と思います。
リストの孫弟子、デル・プエヨさんの演奏(1958年録音)が参考になると思います。

村上春樹さんは小説のなかで、リストの曲の特徴を、うずまき、と指摘されていました。
それは、リストのピアノ奏法の特徴でもあったのだと思います。
リストの再来と言われたジョルジ・シフラ、マダム・リストと言われたフランス・クリダ、そしてリストの孫弟子デル・プエヨ、
共通するのは、音が、上から、下から、右から、左から、うずまきのようにドドドッと流れ込んでくる奏法にあると思います。
デル・プエヨさんの演奏は、リストはこんなふうにハンマークラヴィーアをひいたのかもしれない、と想像させてくれるものがあります。



                         *


国立民族学博物館の「子ども/おもちゃの博覧会」を見てきました。
「ハウルの動く城」に出てきたような戦艦のおもちゃが展示されていました。
おもちゃとして戦艦は実在していたんだと思いました。

国立民族学博物館を出て万博記念公園の東口へ向かうと、廃館になった大阪府立国際児童文学館が見えてきます。

大阪府立国際児童文学館の廃館には、さびしさを感じます。国際児童文学館の青色の「とうろくカード」はいまも持っています。
独裁がどうとか言っていた人が知事の時に廃館になりました。
国際児童文学館が廃館になった数年後に、奇妙な小学校が建設されようとした大阪の動きというものを考えてしまいます。

  人間が人間であろうとすると、言葉がなくてはならない。言葉を定着させるものはなにかというと、
  私はやっぱり本以外にはないのではないかと思います。映像とかいろいろなものがありますけれども、やっぱりそれと並行して、
  言葉というものを私たちの中に蓄えていかないと、私たちは人間らしい生活をすることができない。そういうふうに考えます。
  (石井桃子「子どもが本をひらくとき」大阪府立国際児童文学館の開館記念講演会 1984年5月開催 より)


つけたしになります。

大阪府立 国際児童文学館は、東大阪市の大阪府立中央図書館に「移設」となり、
呼称は、大阪府立中央図書館 国際児童文学館となりました。

言葉としてはそうなのですが、「移設」の実態は、せまい物置きのような場所への「除却」だと思います。
いらないとされた機械を帳簿に名前だけ残し、物置きにほおりこんだように見えます。
せまい物置きのようになった国際児童文学館のさらにせまいスペースに、養老孟司さんの色紙が飾られているのが印象的です。
旧国際児童文学館へのアクセス、万博記念公園の現在は、エキスポシティから散歩がてらに親子で訪れるのに最適の場所です。

  京都には河合先生と同じようにこわーい哲学者がもう一人おられまして、鶴見俊輔さんという方なのです。
  (…)その鶴見さんがいつか、「子どもにとっては哲学の本も法律の本も美学の本もない、全部童話で代行するわけでしょ。
  そういうたいへんな仕事をするあなたたち童話作家というのはほんとにたいへんだねえ」とおっしゃったんです。
  (「河合隼雄その多様な世界」第二部 シンポジウム 今江祥智氏のコメントより)

「全部童話で代行する」そういう世界の「全体」に子どもがふれる場としての国際児童文学館。
大人はその世界「全体」をあらためてふりかえり、考える場としての国際児童文学館。
そういった場が、以前、大阪には存在していました。

  植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。
  日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
  何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。

  覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。
  カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。
  つまり、愛するという事を知る事だ。

  学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。
  学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
  けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。
  (太宰治「正義と微笑」四月十七日 土曜日 より)


                         *


村上春樹の短編「眠り」について書きます。

「眠り」をどう理解したか、という話になりますが、
その「理解」をする方法の一つとして「根本のイメージをつかむ」というのがあると思います。
例えば、寺田寅彦が “物理学をやりたいものは、まずギリシア神話を読みなさい” と言ったのは、
ギリシア神話を読むことで、物理学の「根本のイメージをつかむ」ことができると言ったのだと思います。

「根本のイメージをつかむ」という意味では少しズレますが、
「根本のイメージ」が同じようなところにあるのではないかと思う作品、宮崎駿監督の「風立ちぬ」を、「眠り」とつなげたいと思います。
「風立ちぬ」の「二郎」にとっての「カプローニ」と、「眠り」の「私」にとっての「トルストイ」は、つながっていると思います。

  診療所を開いた時、私たちはまだ若くて貧乏で、生まれてまもない子供を抱えていた。
  私たちがこのタフな世界の中で生き残れるかどうか、誰にもわからなかった。
  でも五年かけて、まがりなりにも私たちは生き残ったのだ。
  (村上春樹「眠り」より)

二郎がカプローニと英語の本で出会ったように、私もトルストイと「アンナ・カレーニナ」で出会ったのだと思います。
そして診療所を開いて五年たった時、再びトルストイは私の前にあらわれたのだと思います。
「君の5年は、どうだったかね」と。


「風立ちぬ」が終わったところから「眠り」が始まる。

  僕が考えるセローの短編の魅力は、その小説的状況を把握するグリップの強さであり、ツイストの巧みさであり、
  最後にふっと読者を放り出すときに感じさせるある種の無力感である。
  (ポール・セロー、村上春樹 訳「ワールズ・エンド(世界の果て)」訳者あとがき より)

シェイクスピアの「オセロー」のようにも感じる、セローの表題の短編ですが、
その「ワールズ・エンド」の登場人物は、家族三人と影のような人物一人です。
その物語を「嫉妬」ではなく「無力感」と解釈したことで、「眠り」の家族三人と影との物語と、つながると思います。

「眠り」の根本に「無力感」があるとして、
もしトルストイなら、その「無力感」をどう読むだろうと考えたくなります。

  われわれが今まで学んだことをすっかり忘れたとき、真の認識が始まる。あるものを認識せんとするとき、
  それと自分との関係が学者によって定められていると考えているあいだは、一歩もその認識に近づかない。
  あるものを認識するためには、まったく白紙の立場でそれに近づかなければならない。(ソロー)
  (トルストイ、北御門二郎 訳「文読む月日(上)」より)

“白紙になったところから真の認識が始まる” とソローが言うように、“無力を感じたところから真の人生が始まる” と私は思うよ。
と、トルストイは言ってくれそうな気がします。


「眠り」の結末の情景は、カフカの「変身」のイメージに近いと思います。

  『変身』は最後の場面で、それまでのモノクロがぱっとカラーになる。
  (カフカ、丘沢静也 訳「変身/掟の前で 他2編」訳者あとがき より)

「変身」の、モノクロからカラーという情景の切り替わり。
「眠り」の結末は「変身」とは逆に、カラーからモノクロに切り替わるように思います。

  公園の白線で区切られた広いパーキングに車を停めてエンジンを切る。まわりの開けた、街灯の下のいちばん明るいところを私は選ぶ。
  パーキングには一台しか車は停まっていない。若い人たちが好んで乗りそうな車だ。
  白いツー・ドアのクーペ。年式は古い。たぶん恋人たちだろう。
  (村上春樹「眠り」より)

「白線」「白いツー・ドア」と、白が強調される夜の情景、ここから「眠り」はカラーからモノクロになり結末へ向かうと思います。


「眠り」は20年の時を経て改稿され「ねむり」として出版されました。
改稿後の「ねむり」は、表現の連続性が整えられ、表現が全体的にまるくなっている気がします。
そういったなか、改稿により印象が鮮明になった場面があります。

  港まで行ってしばらく船を眺めたりもした。 (村上春樹「眠り」より)

  あるいは港まで行ってただ船を眺めた。   (村上春樹「ねむり」より)

この「ただ船を眺めた」という改稿で、船の印象が大きくなったと思います。
そして、その改稿を受けてカット・メンシックさんがかいた大きな船のイラストがすばらしいと思います。
この大きな船の情景で、結末の可能性が広がったと思います。

寺田寅彦の短編「まじょりか皿」が思い浮かびます。

  十二月三十一日、今年を限りと木枯しの強く吹いた晩、
  本郷四丁目から電車を下りて北に向うた忙がしい人々の中に
  ただ一人忙がしくない竹村運平君が交じっていた。
  (寺田寅彦「まじょりか皿」より)

という書き出しではじまります。
忙がしくない竹村運平君は「半月形で蒼海原に帆を孕(はら)んだ三本檣(マスト)の巨船の絵」がかかれた「まじょりか皿」を購入します。

  この闇の中を夢のように歩いていると、暗い中に今夜見た光景が幻影となって浮き出る。
  まじょりかの帆船が現われて蒼い海を果もなく帆かけて行く。(…)
  船には竹村君も小さくなって乗っている。(…)竹村君は片手の皿の包を胸に引きしめるようにして歩いていた(…)
  (寺田寅彦「まじょりか皿」より)

「眠り」は、カフカ的な結末だけでなく、寺田寅彦的な結末へも開かれていると思います。



                           *


23回目の「菜の花忌シンポジウム」の様子を、Eテレで見ました。
「菜の花忌」とは、2月12日の司馬遼太郎さんの命日のこと。

シンポジウムの最後に司馬遼太郎さんの短編「二人の老サラリーマン」から、かつて「蒙古の草原で見た隊商の長老の顔」と同じ顔をしている
高沢光蔵 老記者について書かれたところが朗読されていました。
この短編は、昭和30年(1955年)司馬遼太郎さんが32歳の頃、福田定一 記者だった時に書かれたものです。
全文の書き出しは、こうです。

  私は、ときどき、あの二人の老人を想い出すことがある。たいていは、幸福な瞬間ではない。
  自分の才能に限界を感じた夜、職場で宮仕えの陋劣さにうちのめされた夕、あるいは、自分がこれから辿ろうとする
  人生の前途に、いわれない空虚さと物悲しさを覚える日など、私はきまってあの二人の老人を憶いだすのだ。
  (司馬遼太郎「ビジネスエリートの新論語」 二人の老サラリーマン より)

その二人の老人のうち、もう一人の老人、松吉淳之助 老記者の言葉をついだ文章に、

  べつに、負け惜しみや衒(てら)いという影はどこもない口調である。
  あっけないほど淡々と、彼はその結論を云い切るのである。
  (司馬遼太郎「ビジネスエリートの新論語」 二人の老サラリーマン より)

と、あります。
この二人の老人は、司馬遼太郎さんにとって影のような人だったのだな、と思いました。
「影はどこもない」とありますが、影に影はできないので、つまり、司馬遼太郎さんの影としての老人の姿なのだろうと思いました。


                           *


河合隼雄「影の現象学」について書きます。
解説で、作家の遠藤周作さんが「これは名著である」と書かれています。本当にすごい本だと思います。
河合隼雄先生が47歳の時の著書です。


影とは、「私」にとって受け容れられなかったものであり、同性としてあらわれ、異性としてあらわれる。
個人的な影、個人的な影が投影された他者(投影体としての他者)、他者の影、集団の影、普遍的な影・・・
創造的にもはたらけば、破滅的にもはたらく、影。

  ユングの弟子たちがすでに述べたのと同様の疑問を抱き、ユングの言葉を引用し合いながら、議論しているのを聞いたユングは
  怒りをこめて「そんなのはまったくナンセンスだ! 影とはただ無意識の全体なのだ」と言ったとのことである。
  (河合隼雄「影の現象学」第1章 影 より)

「影とはただ無意識の全体」とのこと。

  その影がどのような面に強調点がおかれているかによって、コンプレックス、超自我、魂、などの言葉によって、
  より適切に表現されることになるのであろう。
  (河合隼雄「影の現象学」第2章 影の病い より)

その影をどのように読むかという強調点のつけかたで、影の表現、意識のされかたは、かわってくるということ。

影を自覚する時、それは、これまで「私」が無意識にのっていた神話がくずれた時、「私」にとって真の人生とでもいうものをつくりはじめる時。
「私」の物語をつくっていく時、影というものが、くずれた無意識から、影が意識されてくるということ。

「影とはただ無意識の全体」という、その「全体」とはどういうものか。

  われわれは人間であるかぎり、影を抱きしめるほどの力をもっていないのではないだろうか。
  われわれは同じ人間として、決してなくなることのない影を自ら背負って生きてゆかねばならない。
  影の自覚、影の統合と言っても、それは無限の量の水から、自分の掌の大きさに合わせて、一すくいの水をすくいとる
  ことを意味している。その一すくいの水も無限の粒子を含んでいることは事実であるが、残された水も、もちろん無限である。
  (河合隼雄「影の現象学」第5章 影との対決 より)

「一すくいの水」という無限と「残された水」という無限とを合わせたものが「全体」ということ。
無限と無限の共時的な一致の感覚としての「全体」。




                           *


映画「ねじれた家」を見ました。
見終わったあと、うわぁ…、という衝撃が残りました。
アガサ・クリスティが、自身の〈最高傑作〉だと誇る小説の初の映画化。

物語の解釈だけを少し書きます。
大富豪レオニデスが毒殺された、というのは「規制者としての父親」つまり「象徴的な父親殺し」と読めます。
しかし、本当に難しいのは、やはり「象徴的な母親殺し」なのだろうという・・・
影にドライブされてしまう。

  われわれ人間の心の深層には、すべてこのような老婆が住んでいるのだが、その姿を見る人は少ない。
  (河合隼雄「無意識の構造」Ⅲ 無意識の深層 より)


                           *

「老婆」というと、映画「ハウルの動く城」が印象的です。

映画の中盤で、3人の老婆、知恵の老婆(サリマン)、誠実の老婆(ソフィー)、欲望の老婆(荒地の魔女)が集い、
それをきっかけにした展開があって「バカげた戦争」は終わりへと向かう。


逆に言えば、一度はじめてしまった戦争を終わらせるという大事業には、3人の老婆が出会うほどの困難さがある、ということかもしれません。

  ハウルが何をやっているのか、えがく時間はなかったんです。
  スタッフにききました。(…)自分の妻たちは、自分が何をしているか、何も知らないし
  関心ももとうとしていない。じゃあ、ソフィーもハウルが何の仕事をしているか、関心をもたなくていいんだ。
  そう思ってこの映画を作ったんです。つまり、ハウルのことはえがかなかったんです。
  (「ハウルの動く城 特典ディスク4」メビウス・宮崎駿 対談 より 宮崎駿監督のコメント)

この話で、ハウルというのは、「めぞん一刻」に出てくる昼間何をやっているかわからない四谷さんとたいして違いがないんだと思いました。
ハウルのイメージがつかめた気がしました。



                          *


ミキ・デザキ監督「主戦場」を見ました。
あやまらない、読まない、という「ないない」の人たちに不気味なものを感じました。
最終的には「知らない」で逃げる「責任なき戦い」の構図と似ていると思いました。
そして、被害にあった人たちには「忘れろ」になるのでしょう。
自分には「知らない」、他人には「忘れろ」、で問題を「解決」しようとする・・・
内容的には気分の悪い映画のはずなのに、テンポがよく、それを感じさせないものがありました。
ミキ・デザキ監督の手腕なのだと思います。
日本の現状が「主戦場」から見えてくると思います。

アメリカの現状を知る映画として、マイケル・ムーア監督「華氏119」がDVDになっています。
マイケル・ムーア監督の原点の地、GM創設の地、ミシガン州フリントで起こった鉛毒による「水道水汚染問題」は、
水道の「民営化」の危険性をよく表していると思います。「ミシガン州を企業のように経営する」スナイダー知事のもと、
住民の鉛毒の検査結果を改ざんするところまでいってしまう。
「民営化」によって住民から「民主主義」を奪う、一部の人が利益を得るために全体の利益を食い物にする、ということがよくえがかれていると思います。

「華氏119」の最後の方で、マイケル・ムーア監督のデビュー作「ロジャー&ミー」の映像、
町の「哲学者」ダリル保安官代理が登場するシーンが目をひきました。
GMがミシガン州フリントの工場を閉鎖し3万人の失業者をだし、その町の住民が住居から立ち退きを強いられるシーンです。
「華氏119」はマイケル・ムーア監督の原点からの問いなのだということを、そのシーンから感じました。


マイケル・ムーア監督「ロジャー&ミー」をあらためて見ると、女性がウサギをつぶすシーンが印象的です。
お金をかせぐため、生きていくため、ペット用として、毛皮用として、食用として、ウサギを飼育する女性が登場します。
食べ物の映画、ロバート・ケナー監督「フード・インク」を思い出します。


「フード・インク」は、企業が種子からスーパーまでを支配していること、極端な効率化がシステムの不安定を引き起こすこと、
そういったことが大腸菌O-157を実例にして、よくえがかれていると思います。

企業は利益を出さなければならない、そういったなかで行われる「効率化」。
企業はもっと利益を出したい、企業に都合のよい法律が成立する、現実を見えないようにするカーテンとしての広告、そういった「支配」。
大腸菌O-157で息子を亡くした、バーバラ・コワルチクさんの
  「政府は国民を守ると信頼していたのに、最低レベルの保護すらない(…)息子より企業が守られていると感じる」
という話が印象的です。
「効率化」と「支配」の悪循環がつくりだす人間無視の世界を感じます。



                          *



映画「ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる」を見ました。

高畑勲監督いわく
  夢のフィルターをとおして世界を見ているような気分にぼくらを誘いこむ魔力をもっている
  (高畑勲 解説「話の話」より)
というアニメーション作品の、ノルシュテイン監督のドキュメンタリーです。

  彼(ノルシュテイン監督)は30年以上の歳月をかけて、ロシアの文豪ゴーゴリの名作
  「外套」のアニメーション作品を製作しているが、未だ完成に至っていない。
  それどころか、近年は撮影が止まっているという。
  2016年6月、カメラはモスクワにあるノルシュテイン・スタジオ“アルテ”に向かう。
  (「ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる」パンフレット より)

という状況での、ノルシュテイン監督のドキュメンタリーです。

  ロシアでは、正直に嘘をつき、残りの世界では、不正直に真実を話す。
  ときどき、ぼくには祖父の言うことがまったく完全にわからなかった。
  (トーン・テレヘン、長山さき 訳「おじいさんに聞いた話」裸の皇帝 より)

というような、まるでロシアの祖父の「お話」を聞いているような映画でした。
ただ、わからないところがあるにしても、何か、こちらが揺さぶられるような感じがしました。


このドキュメンタリーの音楽は、ショパンの名曲集という感じです。

そこで使われた曲のうち、パンフレットに掲載している曲名は、
ボリス・ベレゾフスキー演奏、ショパン作曲ノクターン20番「遺作」だけでした。
その他の曲名は、映画の最後にちらっとテロップで出ますが、
備忘として、そのショパンのピアノ曲の曲名を使われた順番に書きます。

 ・ 即興曲 第4番 嬰ハ短調 Op.66「幻想即興曲」
 ・ 3つのエコセーズ Op.72-3 第2番 ト長調
 ・ ノクターン 第6番 ト短調 Op.15-3
 ・ エチュード 第12番 ハ短調 Op.10-12「革命」
 ・ エチュード 第8番 ヘ長調 Op.10-8
 ・ ワルツ 第6番 変ニ長調 Op.64-1「小犬」
 ・ ワルツ 第7番 嬰ハ短調 Op.64-2
 ・ ノクターン 第2番 変ホ長調 Op.9-2
 ・ ワルツ 第11番 変ト長調 Op.70-1
 ・ ワルツ 第1番 変ホ長調 Op.18 「華麗なる大円舞曲」

以上、10曲です。
選曲は、ノクターン20番「遺作」を基準にされたのだと思います。
ノクターン20番「遺作」は嬰ハ短調です。その嬰ハ短調が他に2曲選ばれています。
ショパン以外のピアノ曲では、ドキュメンタリー内でアニメーション「話の話」が引用され、その音楽、
バッハの平均律第一巻第八番プレリュードが流れました。
バッハとショパンの組み合わせは相性がいいな、と思います。


ロシアのアニメーションというと「雪の女王」を思い出します。
アンデルセン原作、レフ・アタマーノフ監督の1957年製作の映画です。
若きアニメーター宮崎駿氏の方向性を決めた、核となったアニメーションとしても知られています。
DVDの字幕翻訳は、映画「ユーリー・ノルシュテイン《外套》をつくる」でも通訳、字幕翻訳をされた児島宏子さんです。


「雪の女王」は、なかよしの二人、少年カイと少女ゲルダの物語です。
“忘れる”ということが、繰り返しでてきます。

雪の女王が「氷のかけら」でカイに呪いをかけ、カイは意地悪になり、平気で冷酷な言動をするようになります。
そんなカイを、雪の女王が連れ去ってしまう場面での、雪の女王のセリフ、

  すばらしい王国に行きましょう
  そこでお前は すべてを忘れる

連れ去られたカイを、ゲルダは探しに行きます。
川を渡った先に住む、きれいな花咲く庭を持つ魔法使いのお婆さんが、ゲルダを花のように思い、手元に置こうと魔法をかける、

  何もかも 忘れなさい

その後、物語が展開し、フィン人の女がゲルダに言った「想いをつらぬくのだ!」というのが、“忘れる”という言葉と対になっていると思います。
“忘れる”のか、それとも、“想いをつらぬく”のか。

もういい、忘れろ、しつこい、現実の世界でも雪の女王のように「氷のかけら」で刺してくる人がいるように思います。

映像特典で宮崎駿監督は、ゲルダが川に赤い靴をあげてしまう、カイを裸足で探すゲルダに注目されていました。
山賊の娘との会話でのゲルダのセリフ「私は王女ではないの、ただのゲルダ」という「ただのゲルダ」と、裸足のゲルダは、つながって感じます。
「ただのゲルダ」ですが、そこには女王や魔女に対抗するだけの力がある、氷ついた心をとかす強さがある、という物語です。

カイとゲルダ(「雪の女王」)は、安珍と清姫(「道成寺」)のようだと宮崎駿監督は言われていました。
川本喜八郎監督「道成寺」を思い出します。
ゲルダの足は、実は血まみれだったのかもしれません。



  「可愛らしいんですよ。ちょうど安珍のようなの」
  「安珍は苛(ひど)い」  
  許せといわぬばかりに、今度は受け留めた。
  「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
  「だって……」
  「だって、何が御厭(おいや)なの」
  「私は安珍のように逃げやしません」  
  これを逃げ損ねの受太刀(うけだち)という。坊っちゃんは機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。
  「ホホホ私は清姫のように追っ懸けますよ」
  (夏目漱石「虞美人草」二 より)

安珍と清姫というと、夏目漱石「虞美人草」での小野と藤尾の会話を思い出します。

2019年という時代のなかで「虞美人草」を読むと、小野さんが少しかわいそうになります。

  小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえいう。
  筒袖(つつそで)を着て学校へ通う時から友達に苛(いじ)められていた。
  行く所で犬に吠(ほ)えられた。父は死んだ。
  外で辛(ひど)い目にあった小野さんは帰る家が無くなった。
  やむなく人の世話になる。
  (夏目漱石「虞美人草」四 より)

やむなく孤堂先生にお金をだしてもらい卒業した小野さん。
そして、その孤堂先生の「恩」、つまり過去の負債でがんじがらめの小野さんは、
結局、藤尾から逃げ、孤堂先生の娘の小夜子と結婚します。

小野さんは「奨学金」という名の借金で、がんじがらめの現在の人と重なる気がします。
外交官試験に及第し、勢いづいた宗近に「僕の性質は弱いです」(「虞美人草」十八)とまで言わされてしまう。
小野さんは少しかわいそうだな、と思います。

「虞美人草」では、
小夜子の父である孤堂先生の「徳義上の契約」(「虞美人草」十八)という呪的な力と、
藤尾の母の、マクベスの妖婆(「虞美人草」十)のような呪いの言葉との、妖怪大戦争が行われます。
“きれいは汚い、汚いはきれい”とばかりに、鍋をグルグルかき回す藤尾の母が、「平家物語」の平清盛のように、闇の力にもっと通じていれば、
この妖怪大戦争の結末は、違っていたかもしれません。
ただ、“きれいは汚い、汚いはきれい”という言葉は考えさせられます。
現在で言うと“寄り添うは踏みにじる、踏みにじるは寄り添う”という言葉を連想します。


                        *


2019年5月の100分de名著は、能楽師の安田登さんによる「平家物語」でした。
そのなかでの平清盛と平重盛の関係。
上司の平清盛がワンマンで暴走しがちなのに対して、部下の平重盛が冷静沈着でブレーキ役になるという構図。
平家という組織の、意思決定のバランス感覚というお話だと思います。

上司と部下、組織という視点でのお話でした、上司の個人プレーの話が思い浮かびます。
部下を鉄砲玉に使うパターンです。
「おい、おまえちょっと行って、ケンカしてこい」
そう言って、先方に部下をケンカに行かせ、ころあいを見計らって上司が「まあまあ」と登場する。
あたかも反対意見を統合する仲裁者のような顔をして上司が登場する。

結果、「そういう意見」と「こういう意見」、両論に値しない意見が併記されることになり、バランスされることになり、
その「あいだをとって」上司に都合のいい意見がもりこまれ、まとまってしまう。
上に立つべきでない人が、上の役職について策動すると、そのように全体がどんどん狂っていくと思います。



                        *


映画「ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた」を見ました。
しっかりものの娘サムと、生計をたてる能力にとぼしい父フランクという親子。
見ていて「じゃりン子チエ」のチエちゃんとテツの親子を感じました。
こういった親子には、花井先生やおバアみたいな人たちが必要なのだろうと思います。
「おいチエ~」「うち、いまいそがしいねん、一人で遊べへんのか」という会話が映画から聞こえてきそうです。
チエちゃんとヒラメちゃんは、サムとローズなんだろうな・・・と思いながら。映画に猫はでてきません。


さりげないシーン、フランクの認知症の母が警察との関係でえがかれているのはリアルだと思います。
見守りだとか、支えあいだとか言っても、結局、認知症の人は警察に通報されます。
認知症の家族は、警察の人からのイヤミや暴言とつきあうことが日常となります。
例えば、徘徊して迷子になった認知症の人をパトカーでつれてきてくれるのは、ありがたいとしても、そこで警察から一言、
「パトカーは、タクシーと違うんですよ!」と怒鳴られたり。
さりげないシーンですが、家族にとって、たいへんな状況が想像できるシーンです。
認知症の人がアルコールにはまってしまう「アルコール性認知症」を考えると、誰でも一言いいたくなる気持ちはわからなくはないです。
「アルコール性認知症」は、外見的には、認知症なのか、酔っ払いなのか、判断が難しいです。
さりげなく、難しい話がえがかれていました。



                        *


加藤典洋「完本 太宰と井伏」を読みました。
本書後半の「ただの人間」が、なるほどと思いました。

  井伏夫妻は、初代を愛しんでいた。「薬屋の雛女房」には、その小山初代の姿が、初々しいまでに活写されている。
  太宰は井伏に激怒するのだが、それは、身から出た錆である。死んだ初代が太宰の前に蘇る。そして、太宰の文学の基軸を、ぐらつかせる。
  文学的な戦争の死者への後ろめたさと、やはり文学的な実存感情とが、そこでは二つながら、
  「ただの人間」である小山初代の再来に、脅かされている。
  (加藤典洋「完本 太宰と井伏」 5 小山初代という女性 より)

「ただの人間」である小山初代、というところに「ただのゲルダ」を感じました。
そして、太宰の役回りは「雪の女王」が不在の「カイ」になってしまう、と思いました。
太宰は「雪の女王」の「氷のかけら」に刺されたという言い訳ができない「ただの意地悪なカイ」になってしまう。

  それから、井伏さんは、ひょっと、  
  「太宰君、あなたがすきでしたね。」と、おっしゃった。  
  私は、いまでもよくおぼえているのだけれど、「はァ」と笑うような、不キンシンな声をだしてしまった、そして、びっくりしたまま、  
  「それを言ってくださればよかったのに。私なら太宰さん殺しませんよ。」と言った。  
  私は、太宰夫人のことも、たいへん同情していたし、そのほかのこともあったから、このことばは、  
  私が、太宰さんをすきとかきらいとかいうこととは、まったくべつで、一つの生命が惜しまれてならなかったのだけれど、  
  私は、それを井伏さんによく説明することができなかった。  
  (石井桃子「みがけば光る」 太宰さん より)

石井桃子さんが「ゲルダ」になって太宰のところに行っていればどうなっていただろう、ということを思いました。

  加藤さんは、憲法の平和原則を貴重なものと考える立場である。
  だからこそ憲法が「強制」されたことを直視しなければいけない。そんな訴えは新鮮だった。
  自分の力で勝ち取ったわけではないことを、護憲派は過小評価し、ほおかむりしてきた-。
  挑発的な言説は波紋も呼んだ。それでも、平和主義がひ弱であってはいけないという立場は一貫していた。
  (…)加藤さんが71歳の生涯を閉じた。(…)
  (朝日新聞 天声人語 2019・5・22 より)

「強制」された面のある憲法を「押しつけ憲法」と冷笑する人々から、この貴重な憲法を、守り生かすにはどうすればいいのか。
憲法と国民との間に弱いつながりしかないのであれば、そうであればこそ、その弱いつながりを大事にする、それは民主主義の精神とつながると思います。



                        *


2019年6月の100分de名著は「アルプスの少女ハイジ」でした。
高畑勲 演出「アルプスの少女ハイジ」は、宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」へとつながっていく原風景のような作品だと思います。

  日本のアニメーションの主人公はみんないい子なんですね。例えば『千と千尋の神隠し』の千尋だって徹頭徹尾いい子です。
  あんなわけのわからん世界で自分を投げだしちゃったらゲームオーバーで豚になっちゃうかもしれない。
  そんなことは許されない。ずっといい子でいなければならない。
  (「私たちの好きな アルプスの少女ハイジ 別冊宝島736」高畑勲氏へのインタビュー より)

「千と千尋の神隠し」とのつながりを考えると「ずっといい子」のハイジは千尋、
今日からお前はアーデルハイドよ、とハイジの名前を奪うロッテンマイアさんは湯婆婆、
あちこちに金をまき散らすカオナシは大金持ちのゼーゼマンさん、
映画の後半で「ひとりで立てるようになった」でっかい赤ん坊はクララ、とつながるかもしれません。

100分de名著 第4回 再生していく人びと、原作とアニメーションとの違いというお話の流れで、
原作は、血縁や世代を超えた「強い心のつながりで結ばれる」、ハイジに「経済的な保証が与えられる」という解説がありました。
それはそれで感動的な話ではあるのですが、そういった「強い心のつながり」からはみでた「弱いつながり」しか持ちえない人々のことを思いました。
そこに思いをいたすと、高畑勲 演出「アルプスの少女ハイジ」のよさが見えてくると思いました。
「弱いつながり」しか持ちえない人々が、そうであればこそ、その弱いつながりを貴重なものとして生きていく。そういった物語。




                        *


映画「新聞記者」を見ました。
この映画の影の主役は、内閣情報調査室の参事官だと思いました。
その様子に「銀河英雄伝説」の内国安全保障局のラングを連想しました。

  ハイドリッヒ・ラングはつい半年前まで官界の重要な地位にあった。
  内務省社会秩序維持局の長官として、政治犯・思想犯・国事犯の検挙をおこない、言論活動を監視・弾圧し、
  教育や芸術にまで干渉し、帝政を内部からささえる権威的専制主義の支柱として、強大な権力と権限をほしいままにしてきたのだ。
  (田中芳樹「銀河英雄伝説」4 策謀篇 第六章 作戦名「神々の黄昏」より)

この「権威的専制主義の支柱」というのは、映画「新聞記者」の状況とも重なると思います。
民主主義を骨抜きにし「権威的専制主義」をささえることが、その支柱となることが、内閣情報調査室の目的だと思いました。


映画「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を見ました。
フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画です。

図書館は「民主主義の柱」という言葉が印象的です。
「文化の領域に到達しようと願う人すべてに、文化の領域を開放することが重要なのだ」(アンドレ・マルロー)との共鳴を感じます。
公の機関には、“権威的専制主義の柱”のようなものもあれば、“民主主義の柱”のようなものもある。
公の機関のそれぞれの姿が、それぞれの映画、「新聞記者」や「ニューヨーク公共図書館」でえがかれていると思います。

「ニューヨーク公共図書館」での、詩人や詩的な言葉がでてくるところが心に残りました。
映画を見終わった後、この大事に思われているように見える「詩」とは何だろう、ということを思いました。

  詩が好きといっても-
  詩とはいったい何だろう
  その問いに対して出されてきた
  答えはもう一つや二つではない
  でもわたしは分からないし、分からないということにつかまっている
  分からないということが命綱であるかのように
  (ヴィスワヴァ・シンボルスカ、沼野充義 訳、詩集「終わりと始まり」詩の好きな人もいる より)

ポーランドの詩人、シンボルスカさんの詩を参考にすると、詩というのは、
分からないふりや、分かったつもりでもなく、「分からない」ところまでたどりつけば、そこから詩が見えてくる、
そういうことなのかもしれません。

近藤喜文監督「耳をすませば」の雫のセリフで、
カントリーロードについて、「ふるさとって何か、やっぱり分からないから」がありました。
そういった「分からない」から詩は生まれるのかもしれません。
「分からない」という白紙に向かって言葉をつらねていく。



「老子」第四十章にある、有生於無(有は無より生ず)という言葉の、「無」を「たどりついた白紙」と考え、
「有」を「詩」と考えると、詩は白紙より生ず、という言葉ができます。

                         *


れいわ新選組、山本太郎さんの政見放送を見ました。
すばらしいなと思いました。
いままでの選挙で投票に行かなかった40%の人々を中心にして語りかけているのだと思います。

  あなたにふりかかる不条理に対して、全力でその最前に立つ
  (参議院選挙政見放送 れいわ新選組 山本太郎 より)

人間に内在する本質的な不条理を取り除くことは不可能だとしても、人間が作りだした社会からふりかかる不条理は、
人間の力によって是正できないはずはない、そういった「民主主義宣言」を感じました。

  現在の政治に足りないのは、この国に生きる人々をおもんばかる気持ち、この国に生きる人々への投資、
  愛と金が圧倒的に足りていない。
  (参議院選挙政見放送 れいわ新選組 山本太郎 より)

「愛と金」という言葉には「経済なき道徳は寝言、道徳なき経済は犯罪」という二宮尊徳がいったとされる言葉との共鳴を感じます。
そもそも人々への「愛と金」が政治に足りていない。

  消費税は廃止
  (参議院選挙政見放送 れいわ新選組 山本太郎 より)

年間消費200万円に10%の消費税がかかると20万円、年間消費300万円に10%の消費税がかかると30万円、
それぞれ消費税を負担することになる。
例えば、年収(手取り)220万円の人で、手もとにお金が残らず、すべて消費にまわる場合、1ヵ月分の給料以上の金額を消費税でとられる計算になる。
どんどん首がしまっていく。
いままで選挙に関心をもてなかった人々が投票に行くのか、主権者の意思の熱風がおこるのか、どうか。


                         *


         世間ではいつもどうでもいいことが一番問題にされる  キェルケゴール 
         (鷲田清一 折々のことば 2019・7・26 より)


                         *



新海誠 監督「天気の子」を見ました。

冒頭の船のシーンから、何回も、帆高が読んでいる本という様子で、サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のペーパーバックが登場しました。

  僕はときどき実際の年齢よりずっと子どもっぽく振る舞っちまうんだよ。
  僕は当時十六歳で、今では十七歳なんだけど、よく十三歳の子どもがやるみたいなことをしちゃったりする。
  (J.D.サリンジャー、村上春樹 訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」2 より)

ホールデンくんが16歳、帆高くんが16歳、そういう系譜の映画になるのかな、と思いながら見ました。


  彼はアリーに野球のミットをもってこさせた。そして誰がいちばん優れた戦争詩人だと思うかとたずねた。
  ルパート・ブルックか、エミリー・ディッキンソンか? エミリー・ディッキンソン、とアリーは言った。
  (J.D.サリンジャー、村上春樹 訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」18 より)

高畑勲 演出「赤毛のアン」第40章 ホテルのコンサートで、アンがアンコールで朗読した詩人の名前、
エミリ・ディキンスンの名前が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にでてきます。「優れた戦争詩人」として。

  そとの幽霊に真夜中に出会うほうが
  はるかに安全だ
  あのもっと冷たい客に
  うちがわで向かい合うよりも(…)

  からだはピストルを携えて
  ドアを閉める
  だがもっとすぐれた幽霊か
  なにかを見逃がすのだ
  (新倉俊一 訳編「ディキンスン詩集」六七〇番 より)

帆高が「お守り」として持っているピストルは、ディキンスンのピストルと似ていると思いました。
ピストルを持ってはいるものの、ピストルでは解決できないものと向き合わなければならない。
そして、帆高のピストルは「お守り」どころか災いをまねいてしまう。
結局、ピストルは役に立たない、何も持たないで行くしかない。


  これは現代の一種のピカレスク小説ということもできるだろう。個性ゆたかな主人公が自分の体験を自分の口から
  語って聞かせるという趣向をも含めて、アメリカでは遠くマーク・トウェーンの『ハックルベリー・フィンの冒険』に先蹤(せんしょう)を
  見るし、日本ではさしずめ漱石の『坊っちゃん』あたりに最も卑近な同類を見ることができる。
  (サリンジャー、野崎孝 訳「ライ麦畑でつかまえて」解説 より)


夏目漱石「坊っちゃん」から「キャッチャー」「天気の子」と考えると、“老婆”の存在が主人公を支えていると思います。

  それを思うと清(きよ)なんてのは見上げたものだ。
  教育もない身分もない婆(ばあ)さんだが、人間としてはすこぶる尊(たっ)とい。
  今まではあんなに世話になって別段ありがたいとも思わなかったが、
  こうして、一人で遠国(えんごく)へ来てみると、始めてあの親切がわかる。
  (…)清はおれの事を欲がなくって、真直(まっすぐ)な気性だといって、ほめるが、
  ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。
  (夏目漱石「坊っちゃん」四 より)

「坊っちゃん」では「清(きよ)」という老婆が、坊っちゃんを精神的に支えている。

  荷物をまとめたあとで、手持ちの金をざっと勘定してみた。
  そのとき正確にいくら持っていたのか、今はちょっと思い出せないんだけど、かなりたくさんあったと思う。
  その一週間くらい前に、祖母がたっぷりとお小遣いを送ってきてくれたところだった。
  このおばあちゃんときたら、並外れて気前のいい人なんだ。それにもうものすごい高齢で、ちょっと頭のネジがゆるんできてるんだろうな。
  なにしろ年に四回くらい誕生祝いのお金を送ってくれたりするんだよ。
  (J.D.サリンジャー、村上春樹 訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」7 より)

「キャッチャー」では「祖母」という老婆が、ホールデンを経済的に支えている。

そして、「天気の子」では「冨美」という老婆が、世界を歴史として見なおす知を帆高にさずけてくれる。
歴史が過去に戻ったのではなく、歴史を新たに開いたという自覚が帆高に生まれる。

「天気の子」の、まくら投げのシーンは「けいおん!」へのオマージュのようなものだったそうで、その幸せそうなシーンに何とも言えないものを感じます。



                         *


放映45周年記念特別企画 アルプスの少女ハイジ展(阪急うめだ本店9階 阪急うめだギャラリー)に行ってきました。

キャラクターデザインをされた小田部羊一さんの原画の展示があったり、原作のいろんなパターンの挿絵が見れたり、
記念写真が撮れる撮影スペースがあったり、楽しい展示会でした。

ただ、展示会場に入る直前にある撮影スペースの壁面のイラストを見てちょっとのけぞってしまいました。
それは、今回の展示会の限定グッズに使われたイラストを引き伸ばしたものでした。
アルムの山にビルが建ち、それを背景に、ハイジが阪急の紙袋をぶらさげてブランコにのっているイラストでした。


放映45周年記念の展示会のイラストとして、作品の世界観やハイジのキャラクターとマッチしているのか、
コラボするにしても、もう少し他にやりようはなかったのかなと思いました。

  われわれがいま住んでいる社会が崩れるのは土地問題からだろうと思うのです。
  田中角栄氏が記憶されるのは、中国と国交を回復したことと、日本の資本主義を一種の土地の魔法で変形させた
  代表的な人物としてだろうと思います。歴史に残るのは、どちらのほうでしょう。
  (司馬遼太郎「対談集 日本人への遺言」日本の選択 より)

アルムの山の土地にビルを建ててしまう価値観、ズイヨーと阪急はそういう価値観を持っていると記憶されて、そういうふうに見られて、
本当にいいのかな、と思いました。物語的に考えても、おんじの山小屋が「ちいさいおうち」(バージニア・リー・バートン、石井桃子 訳)に
なっていきそうで、全然違う話だと思います。


ハイジの声を担当された杉山佳寿子さんのトークショーに行ってきました。
「うる星やつら」のテンちゃんの声も聞けて、会場がヒートアップしていくのを感じました。よかったです。
杉山佳寿子さんの好きな言葉は「怒りは明日へのエネルギー(いかりはあすへのえねるぎー)」でした。
腹が立ったり矛盾を感じたり、それをエネルギーにかえて生きていく、そして、それをエネルギーにかえられるうちは生きていられる。
そういったお話でした。



                         *


映画「ひろしま」(2019年8月16日金曜深夜、Eテレ放送)を見ました。

・ 原爆投下から8年後の1953年に製作され、出演者の多くは被爆者の人々。
・ 映画の製作者達がこだわったのは、原爆投下直後の広島の姿をリアルに再現すること。
・ 映画の脚本は、被爆した当事者達の手記を基に作られた。
(NHK『忘れられた被爆者たちの 原爆映画「ひろしま」』による)

映画の音楽は「ゴジラ」の伊福部昭さんでした。

原爆投下直後のシーン、川まで逃げてきた月丘夢路さん演じる先生と女生徒たちが、
君が代を歌いながら、川の水にとけるように死んでいくシーンが強烈でした。
さざれ石(小さい石)が、巌(大きい石)になるどころか、川の水にとけるように死んでいく・・・
圧倒的な矛盾を感じるシーン。


映画「ひろしま」の上映は今、北米やヨーロッパ、アジアなど、世界10の国々へ広がっている、とのことです。


                         *


2019年8月30日の金曜ロードショーは「天空の城ラピュタ」でした。
シータのセリフ「国が亡びたのに 王だけ生きてるなんて こっけいだわ」は、8月によく響く、いいセリフだと感じます。




                         *



大村大次郎「税務署・税理士は教えてくれない「相続税」超基本」を読みました。
相続や相続税の知識がまるでないなかで、最新の入門書ということで本書を手に取りました。
受験勉強の時にお世話になった「実況中継」シリーズのような読みやすさがあって助かりました。

  これまで最低でも6000万円を超える遺産がないとかからなかった相続税が、平成27年の税制改正で3600万円を超える遺産でも
  かかってくる可能性が生まれるようになりました。
  
  財務省としては、相続税の課税範囲を広げることで、税収を増やそうということです。
  この改正により、これまでは死亡した人の親族の4%程度しか相続税対象ではなかったのに、8%程度の親族が相続税の対象になりました。
  
  その一方で、高額遺産に関しては大幅に税率が下げられています。
  かつて日本では相続税の最高税率は75%(遺産額20億円超)だったのですが、現在では55%まで下げられています。
  つまり、大資産家に対しては大きな減税をし、その代わりに、これまで相続税がかかっていなかった一般の人にも課すようにしたということです。
  こうした「広く、浅く」という方向性は、近年の日本税制の大きな特徴の一つでもあります。
  (大村大次郎「税務署・税理士は教えてくれない「相続税」超基本」おわりに より)

中間層をぶっこわす!という方向性の気がします。壊した後は自己責任、ということでしょうか。
現在の日本は、“徴税だけ、行政なし”という中世のような社会を目指しているように感じてしまいます。



                          *


半藤一利「語り継ぐこの国のかたち」を読みました。

「歴史眼」によって世の中は違って見えてくる、そういうことだと思います。

  ところが、いまは、おれは歴史を知らなかったなあ、とつくづく思っています。
  あのとき、焼け跡で明治維新後の日本人を想起すれば何でもなかった。残念ながら、わたくしにはそれだけの歴史眼がなかったのです。
  馬鹿をいうな、敗戦後は外国の占領下にあり、明治維新とは違うよ、と反発する人も多いでしょうか。
  でも、よくよく探索してみれば、江戸っ子にとって薩長は実質的には占領軍であったのです。
  それは明治史をみれば一目瞭然である。はっきりいえば、明治二十四、五年くらいまで、ダラダラと薩長の占領統治がつづいていたのです。
  (半藤一利「語り継ぐこの国のかたち」新たな時代をどう生きるか より)※明治二十四年(1891年)

薩長の占領下にあった時代があり、GHQの占領下にあった時代がある。
「占領」という言葉には、憲法(ルール)を超えた存在としてふるまう勢力による統治、という意味がこめられていると思います。
その意味でいまをみれば、現在は何者によって「占領」されているのか、という問いへつながると思います。

  歴史というのはずっと延長線上にあるものだ。同じ流れのなかにあるものだ(…)
  (半藤一利「語り継ぐこの国のかたち」語り継ぐこの国のかたち より)

「歴史というのはずっと延長線上にある」というように歴史の流れを追った本として、
ダニ・オルバフ 著、長尾莉紗/杉田真 訳「暴走する日本軍兵士 帝国を崩壊させた明治維新の「バグ」」があります。
明治維新、つまり1868年の時点で16歳の少年であった明治天皇、ホールデンくんや帆高くんと同じ16歳の明治天皇、
そういうところから、事実を押さえつつ、軍人の不服従の歴史が書かれています。

  タルムードのことわざにもあるように、「真の泥棒は穴であって、ネズミではない」悪事を企む者がいるだけでは犯罪は起きない。
  むしろ、そのような人物の行動を可能にする組織の抜け穴や制度的な弱点にこそ焦点を当てて分析すべきである。
 (…)どこであろうと穴がある限り、必ずネズミは忍び込むのである。
  (ダニ・オルバフ 著、長尾莉紗/杉田真 訳「暴走する日本軍兵士 帝国を崩壊させた明治維新の「バグ」」第八章 満州の王 より)

半藤一利「語り継ぐこの国のかたち」に、「日本を暴走させた人たち」という項目があります。未承認の軍事行動である、
朝鮮王室の閔妃を暗殺した三浦梧楼や、満州軍閥のトップ張作霖を暗殺した河本大作、についても読みたかったなと思いました。

  「司馬さんね、自然をこれ以上壊さないことは我々の生活の拡大、贅沢さの拡大、それをここでピタッとやめるということですよ」
  と言ったら、
  「勿論(もちろん)そうだ、『足るを以て知る』という言葉があるだろう。つまりもうここで満足、足るということを国民が知って、
   知ることによってまだかろうじて残っている自然をそのまま子孫に渡せるじゃないか」
  と言うのです。
  いまの日本のあさましい姿を見ますとわたくしにはとても無理だと思うのですが、そう言いながらも、司馬さんのなかにも
  何か絶望感があったような気がしてきます。
  (半藤一利「語り継ぐこの国のかたち」語り継ぐこの国のかたち より)

半藤一利さんは、半藤一利「歴史に「何を」学ぶのか」第二話で、歴史上で好きなふたりの人物として、
ポツダム宣言を受け入れた鈴木貫太郎と、江戸城無血開城をなしとげた勝海舟をあげられています。
足るを知るということ、引き際の判断ができる人物が、半藤さん好みの人物なのだと思います。

  どうみても、いまの指導層からは、何か重大なコトがあるときに国民の生命や財産を保護する義務と責任とがあるという
  いちばん大事な意識が、まったく感じられないのです。それこそ「この国のかたち」はどうなってしまっているのでしょうか。
  彼らの意識にあるのは自分たちの利益や「お友達」だけで、国家や国民の全体などどうなってもいいと思っているのではないでしょうか。
  つい最近でも国土のあちらこちらが大災害をうけているとき、その緊急の対策はそっちのけで、いわゆる「カジノ法」の成立に
  さかんなる執念を燃やしていた議会の有様、あるいは赤坂での楽しそうな酒盛り、爺いはただ嘆息をつきつつ眺めているだけでありました。
  「日本よ、平和で、いつまでも穏やかであれ」というわたくしの願いは空しくなるのでしょうか。
  (半藤一利「語り継ぐこの国のかたち」「国体」について より)

上記引用文は2018年8月15日付ですが、2019年9月の台風15号についても「いちばん大事な意識」を大事にしていないように見えます。
目をつぶり、耳をふさぎ、永遠に自らの内部に閉じこもる、結論ありきの体質というのも見えてきます。




                         *


16歳というと「銀河英雄伝説」では、ヤン・ウェンリーが父親と死別して士官学校に入学するのが16歳、
ユリアンが、ヤンのもとから離れてフェザーン駐在弁務官事務所に赴任するのが16歳でした。

  カフカはなぜか『変身』ではなく、『失踪者』第一章を送った。その際、主人公の年齢を一つへらして、十六歳にした。
  十七歳はすでに大人であって、「小さな大人」だとすると、十六歳はまだ少年、「大きな子供」というものだ。
  両親のいる楽園から追放されて、「大きな子供」が異郷へ渡る。
  年齢が一つ変わっただけで、一つの独立した短編になった。
  (カフカ、池内紀 訳「流刑地にて」『流刑地にて』の読者のために 池内紀 より)

高橋留美子「うる星やつら」のメインの登場人物が高校2年生というのも、16~17歳の「大きな子供」と「小さな大人」が混在する面白さを、
うまくつかんでいるのだと思います、もちろん面白さの理由は、それだけではないと思いますけど。



                         *


「しかし それだけではない。加藤周一 幽霊と語る」DVD企画制作/スタジオジブリ、を見ますと、
時代の息苦しさが伝わってくる気がします。

  私なんかが思い出すのは、戦争が終わる前までは、

   “2+2=5” だとか、

   “アメリカの爆撃機が、東京の上を飛んでるうちはいいけども
    宮城(きゅうじょう)の上を飛べばただじゃすまない、
    嵐が起こってみんな落ちちゃうだろう” なんていう事を言って、

  それは冗談じゃなくて真面目なわけね。
  そうするとどういうふうに付き合うか、真面目なんだから、相手は。
  45年の8月15日までは、本当にとにかく精神的拷問ですよね。
  国全体が不合理な事を平気で言って、要するに理性に対する攻撃だな。
  (「しかし それだけではない。加藤周一 幽霊と語る」DVD企画制作/スタジオジブリ より)

不合理な事を平気で言う「真面目さ」によって国全体がぬりつぶされていく時代。

  わが友よ。学問、芸術、また道徳もひっくるめて、これらは、『真面目』で勿体ぶった、行いすましたものではない。
  単に遊戯が問題なのだ。(…)まさしく外にむかってのその『真面目さ』の欠如こそが(…)
  知らず識らずのうちに、厳しい或る内面的な『真面目さ』を人に付与することになるのだ。
  (オルテガ・イ・ガセー、西澤龍生 訳「傍観者<エル・エスペクタドール>」哲学を学ぶアルゼンチンの一青年に寄せる書 より)

不合理な事を平気で言う「真面目さ」がないところにこそ、内面的な「真面目さ」が育ってくるのだと思います。
そして、不合理な事を平気で言う「真面目さ」を面白がって眺めることは、内面的な「真面目さ」をつぶす側に、
「精神的拷問」を応援する側に立つことだと思います。

  事実を知らなきゃ、どうにもしようがないわけで、どうにもしようがない。
  第一は、それを正確に知る事だ。嘘を言ってたんじゃだめなんだ、本当の事を言わなきゃ。
  本当の事が言えて初めて、どうしようかという事が真面目に問題になる。
  (「しかし それだけではない。加藤周一 幽霊と語る」DVD企画制作/スタジオジブリ より)

事実を正確に知る事で初めて、どうしようかという事が「真面目に」問題になる。
不合理な事を平気で言う「真面目さ」は、問題を隠蔽する「真面目さ」だと思います。どうにもしようがない「真面目さ」。




                          *


  「ただあげて人間ことごとくを以てしてのみ、人間世界は生きられたことになる」-とゲーテは言う。(…)
  現実が姿をあらわすのは、それゆえ、個々人の遠近法(パースペクティヴ)の中においてである。
  ある人にとり一番背景にあることが、別の者にとっては前景にある。景観がわれわれの網膜に従って規格(サイズ)と距離をととのえるのだ。
  するとわれわれの心の方も強調点(アクセント)を配分するわけである。
  (…)われわれの諸々の視覚作用(ヴィジョン)を寛大なる精神的協働へと合流させていこうではないか。
  そして個々独立の川岸が太い河川の水脈へとあたかも合流して行くように、われわれも実在の奔流を組み立てて行こうではないか。
  (オルテガ・イ・ガセー、西澤龍生 訳「傍観者<エル・エスペクタドール>」真理と遠近法(パースペクティヴ)より)

2019年10月の台風19号の水害の一つとして、支流が、太い河川に合流できず逆流するように氾濫してしまうということがありました。
災害時に情報を「合流」させる「太い河川」の役割を果たすのが政府だと思います。そして「合流」した情報を基に予算が配分される。
いまの指導層には、そもそも「太い河川」としての意識が感じられません、「実在の奔流を組み立てて行こう」という意識が感じられません。
そして、支流は氾濫します。

  古今東西を通ずる歴史という歴史がほとんどあらゆる災難の歴史であるという事実から見て、今後少なくも
  二千年や三千年は昔からあらゆる災難を根気よく繰り返すものと見てもたいした間違いはないと思われる。
  少なくもそれが一つの科学的宿命観でありうるわけである。
  (寺田寅彦「天災と国防」災難雑考 より)

歴史とは「あらゆる災難の歴史」だということ。
人間が、どのように生かされ、どのように殺されてきたか、という歴史をふまえて考えることの大事さを思います。



                          *


「マンガでわかる こんなに危ない!?消費増税」消費増税反対botちゃん 著、藤井聡 解説、を読みました。
消費税のこれまでの影響と、これからの影響がコンパクトにまとまっていると思います。

第5話、「ケイ団連会長」がでてくるところで「輸出戻し税」がでてきます。
これは消費税の計算から言うと、輸出免税を0%課税と考えて、課税売上割合に入れ、その分の仕入税額控除を可能にするところから発生します。
以前、消費税が4%の時代に科目を勉強した時、輸出免税が0%の課税売上という意味がつかめなかったのですが、今はわかります。
消費税の「正しい」影響としての「輸出戻し税」です。

  消費税法 第二十九条 消費税の税率は、百分の四とする。
  (消費税法 昭和六十三年一二月三〇日法律第一〇八号、最終改正 平成一三年七月四日法律第一〇一号 より)

国税としての消費税が4%、地方消費税がその25%、合わせて消費税等5%、その税率に戻す時が来ていると思います。
消費税を5%に戻すことは、単に歴史を過去に戻すというのではなく、歴史を新たに開く効果があると思います。

物語的には「財務省」が敵役になっていますが、「官邸官僚」が登場人物に加われば物語はどうなっただろう、と思いました。



                          *


ロジャー・メインウッド監督「エセルとアーネスト ふたりの物語」を見ました。
レイモンド・ブリッグズさん原作のアニメーション映画です。

ブリッグズさんの絵本というと「さむがりやのサンタ」の印象が強いです、この絵本はとにかく面白いです。
そのブリッグズさん原作の映画「エセルとアーネスト」は、ブリッグズさんのご両親の物語です。
ふたりが結婚してから死んでしまうまでの、家庭が生まれて家庭が消滅するまでの、ふたりの「ふつう」の物語です。
1928年~1971年というヒトラーの時代をはさんだ、イギリスの「ふつう」の家庭の物語が、あなたにはこの「ふつう」が、どう見えますか?
と問いかけてくるように感じました。

お母さんのエセルの認知があやしくなり、亡くなった場面が悲しいです。

エセルが亡くなった場面は、私の入院している認知症の親が看護師に雑にあつかわれている姿を見て悲しくなるのと重なるところがあります。
それが、「ふつう」の家の、「ふつう」の認知症の老人へのあつかいなのでしょうけど、今流行の言葉「上級国民」にはそんなあつかいはしないのでは?
という気もしてしまいます。イギリスの階級社会と、現在の日本の社会には、重なるところがあると思います。
「上流階級」が好きなエセルの亡くなった場面が印象的です。原作でいうと「入れ歯も雑にねじこまれているし」という場面です。

  すべて国民は個人として尊重される。
  (日本国憲法 第十三条 より)

「上級国民」であろうと「ふつう」の国民であろうと、すべての国民、すべての患者は、個人として平等に尊重される。大事なことだと思います。




                          *


ニテーシュ・アンジャーン監督「ドリーミング 村上春樹」を見ました。
1995年に「ノルウェイの森」に出会って以来、二十年以上、村上春樹作品をデンマーク語に翻訳してきたメッテ・ホルムさんのドキュメンタリーです。

  「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。
   イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities ― まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに
   責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」(…)夢の中から責任は始まる。(…)
  「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中でおこなわれたことに対して
   君は責任を負わなくてはならない。結局のところその夢は、君の魂の暗い通路を通って忍びこんできたものなのだから」
   (村上春樹「海辺のカフカ」第15章 より)

「ドリーミング」、「夢」、というと、「夢の中から責任は始まる」という言葉が思い浮かびます。
それから、上記文章をタルムードのことわざ「真の泥棒は穴であって、ネズミではない」をふまえて考えると、
「真の泥棒」は「暗い通路」であって「夢」ではない、ということになると思います。
そうすると、この映画のタイトル「ドリーミング」から、「真の泥棒」である「暗い通路」を想像することが必要になりそうです。

村上春樹さんの作品を読んでいて「普通に話をしているところで突然、蛇があらわれたり」という瞬間、
デンマークの読者はそういった瞬間を「ムラカミの瞬間」と呼んでいるそうです。

昭和30年代の初め、村上春樹さんの父と村上少年が自転車で西宮の海辺に大きな雌猫を棄て、「さよなら」を言って家に帰ると、
「にゃあ」と言って、棄てたはずの猫が尻尾を立てて愛想よく出迎えた話は、村上少年が経験した「ムラカミの瞬間」なのだと思います。
突然、思わぬところから猫がでてくる。

  僕らより先回りして、とっくに家に帰っていたのだ。どうしてそんなに素速く戻ってこられたのか、
  僕にはとても理解できなかった。なにしろ僕らは自転車でまっすぐ帰宅したのだから。
  (村上春樹「猫を棄てる-父親について語るときに僕の語ること」文藝春秋2019年6月 より)

これが小説であれば、その猫はどこか「暗い通路」を通って家に帰ってきた、ということになるかもしれません。

映画で、「個人を抑圧する日本社会を批判する」作家としての村上春樹、ということが言われていました。
現在の日本は、何をしても許される抑圧する側と、抑圧する側への忖度しか許されない抑圧される側と、その分化が激しくなっていると思います。
社会の「循環」ではなく、社会から「吸い上げる」ことに軸足をおくのであれば、社会はひからび、個人への抑圧はより直接的に、悪質になると思います。
抑圧される側が、抑圧する側の「吸い上げる」支配に無自覚に同調する時、社会は崩壊し、社会資本も破綻するのだと思います。




                          *



朝日新聞 2019年11月4日(月) 朝刊「文化の扉」のコーナーで、銀河英雄伝説がとりあげられていました。

記事の見出しは「銀英伝が問う民主主義」です。
作者に取材して「こうである」というまとめかたではなく、様々な人に取材して「こうではないか」というまとめかたをしている記事で、
銀河英雄伝説の広がりが感じられるいい記事だと思いました。

記事に「同盟では政治家たちが選挙で支持を得るために無謀な出兵を強行して大敗。それでも人々は、徹底抗戦を叫ぶ煽動的な
政治家トリューニヒトに熱い声援を送る。」とある、トリューニヒトが、地球教というカルト宗教団体から熱い支持を得ているのも
リアルなところだと思います。
利権ファーストの「政治とカネ」だけでなく、票田ファーストの「政治と宗教」がえがかれている。
物語のなかでは過去の遺物となっている地球を取り戻すために、「徹底抗戦」になってしまう地球教の存在は、不気味なものがあります。
「愛国」的な戦争だけでなく「宗教」的な戦争という色が同盟にもでてくる。
ただ、フェザーンという視点から見れば、そもそも帝国と同盟の戦争とは、「宗教」戦争ということになるのでしょうけど。
ヤン・ウェンリーの目には「トリューニヒトと地球教か、どちらがどちらを利用しているやら」と、うつるようです。

記事に「登場人物は650人以上」とあるのは、ちょっと多く数えすぎかなと思います。
「銀河英雄伝説ハンドブック」田中芳樹 監修 徳間デュアル文庫、の「人名事典」での掲載人物をカウントすると、
「オーベルシュタインの犬」を含めて608人でした。600人以上、ぐらいにしておくのが適切だと思います。

記事のイラスト部分「銀河英雄伝説とは」にフェザーン自治領主ルビンスキーが入っていないのが残念です。
ルビンスキーは、ヤン・ウェンリーを査問にかけるように画策したり、銀河帝国皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世の同盟への亡命を画策したりする、
重要人物のはずですから。

ヤン・ウェンリーの査問のところで、メディアがトリューニヒトにコントロールされていることがあきらかになります。
「政治とメディア」についてえがかれている。
ヤン・ウェンリーが「ペンは剣よりも強し」と言ったのは、「ペン」の、メディアの重要性を言ったのだと思います。

同盟が、エルウィン・ヨーゼフ二世の亡命を受け入れた世論の背景には、エルウィン・ヨーゼフ二世即位に伴う「恩赦」も関係していると思います。
その「恩赦」に伴う捕虜交換で「恩」を感じた可能性のある人が、同盟だけで200万人、家族を含めれば500万人はいたという。
そう考えると「恩赦」の功罪ということもリアルに考えてしまいます。「政治と恩赦」について、あるいは「恩」と呪いについて。




                          *


  ヨーロッパに住んでいたとき、何か国際的な事件が起きて、おのおのの人が、自分の属する国家のその事件に対する対応に
  納得が行かない、ということが起こった場合に、彼等がまずすることが、ローマ法王庁の放送に耳を傾けるという習慣があること
  を知って、なるほど、と思ったことがあった。彼等は国家や政府以外の判断基準をもう一つもっている、と。
  (堀田善衞「天上大風」思想家としてのローマ法王ヨハネ・パウロ二世 より / 紅野謙介 編、宮崎駿 カバーイラスト)

フランシスコ教皇の、2019年11月24日、長崎市の爆心地公園でのスピーチをテレビの中継で見ました。
“兵器に大金をついやし、兵器の製造、近代化、維持、販売で大もうけをし、兵器の破壊力を増す、これは神にそむくテロ行為です。”
というところが印象的でした。「国家や政府以外の判断基準」を感じました。


  あれはたしか一九八五年頃であったと思うのだが、その頃に“Back to the Future”というハリウッド映画があった。
  (…)このタイトルの背後には、何かがある、何かが秘められている、と思ったのであった。それで、かねて紹介されていた
  バルセローナ大学で古典学を講じている教授との酒席で、おそるおそるこの“Back to the Future”を持ち出してみたのであった。
  (…)カタルーニア人であるこの教授はきわめてあっさりと、
  ― ああそれはホメロスの『オディッセイ』から来ているのです。『オディッセイ』を読んでごらんなさい。謎は解けますよ。
  と言ってにこにこと笑っているのであった。

  (…)古ギリシアでは、過去と現在が(われわれの)前方にあるものであり、従って(われわれが)見ることの出来るものであり、
  (われわれが)見ることのできない未来は、(われわれの)背後にあるものである、と考えられていた、というのである。
  これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入って行く、ということになるであろう。
  すなわち、Back to the Future である。

  (…)つまり、ほんの少数の賢人だけがわれわれの背後にあるもの(未来)を見ることが出来るのだ、ということになるであろう。
  かくて、未来がわれわれの背後にあってわれわれには見えない、ということになると、この未来はいくらか魔物めいて来ることは、
  避けがたいと思われる。(…)また、過去と現在こそが、われわれの眼前にあるものであって、それは見ようとさえすれば見えるのだ、
  という考え方もまた、濃いリアリティをもっている。ここで過去という言い方を、歴史、と言い換えてもいいであろう。
  (堀田善衞「天上大風」未来からの挨拶 ― Back to the Future より / 紅野謙介 編、宮崎駿 カバーイラスト)

後期高齢者(75歳以上)の医療費を2割負担にする方向で政府は最終調整だそうです。安心して年をとれない社会を作りたいようです。
未来が「魔物めいて来る」とすれば、その「魔物」に対するには、社会をもってあたろうとする発想が大事だと思います。
「見ようとさえすれば見える」過去や現在をシュレッダーしていく発想の集団が、国民の未来をシュレッダーしていく現状を感じます。




                          *


  一に一を加えて二になる。これは算術である。
  しかし、ヴェクトルの数学では、1に1を加える場合に、その和として、0から2までの間の
  任意な値を得ることができる。
  (寺田寅彦「柿の種」より)

ベクトルの数学で考えると、反対方向の2と2を加えれば0になってしまう。
戦争というものは、“2+2=5”というものがはじめて、結局、“2+2=0”で終わるものなのだと思います。



                           *


  まず、敵に対して、少なくとも6倍の兵力をそろえ、補給と整備を完全に行い、司令官の意思をあやまたずに伝達することです。
  勝敗などというものは、戦場の外で決まるものです(…)戦略的条件が互角であれば、無論、軍人の能力は重要です。
  ですが、多少の能力差は、まず数量において補いがついてしまいます(…)少数が多数に勝つのは異常なことです。そのような奇跡を
  最初からあてにされて戦争をはじめられたら、前線に立つ者はたまったものではありません。
  (第四次ティアマト会戦後の式典にて、トリューニヒトの質問「必勝の戦略」へのヤン・ウェンリーの返答)

野党に仕事をしてもらおうと思えば「6倍」とは言わないまでも、ある程度の議席を与えないと難しいと思います。
ヤン提督いわく「勝敗などというものは、戦場の外で決まるもの」でしょうし「多少の能力差は、まず数量において補いがついてしま」うものでしょうから。

  わが同盟政府には、両手を縛っておいて戦いを強いるクセがおありだから、困ったものです。
  (第八次イゼルローン攻防戦前夜のヤン・ウェンリーの感想)

というのが現在の野党の本音かもしれないです。それに対してメディア、国民はどのように「対話」するのか、という局面を感じます。
ひょっとすると、メルカッツ提督に民主主義の未来を託すような段階に入っているかも・・・



                          *


  しかし、ここで注意したいのは、権威から個人の自由を戦い取った西洋のひとたちは、その長い戦いの過程において、
  自分の意識のなかにその行動の責任の主体としての自我を確立させてきたことである。
  (河合隼雄「ユング心理学入門」東洋と西洋の問題 より)

「ローマ法王庁の放送に耳を傾ける」西洋のひとたちは、同時に「権威から個人の自由を戦い取った」ひとたちであるということ。
「権威」への追従ではなく、「権威」と対話できるということが前提にあって「耳を傾ける」ということがそこにある。
日本人が得意だとされてきた他人を「察する自我」、西洋のひとたちが得意だとされている自分を「主張する自我」、
それらの前提としての「対話する自我」の重要性を思います。
もし「対話する自我」が確立されていない場合、「察する自我」は権威にのみこまれ、「主張する自我」は自我肥大へと向かってしまうと思います。



                           *


2019年12月5日、フレデリック・バック監督「木を植えた男」をあらためて見ました。
ジャン・ジヨノ原作のアニメーションです。
“男は戦争とは一切無関係に ただ木を植え続けていました”
という男が、完全に失われていた緑の大地をよみがえらせた物語です。

  まったく関係がなさそうに思えるかもしれませんが、じつは、私はバックさんの作品から大きな影響を受け、
  『ホーホケキョ となりの山田くん』を作りました。そして今また、バックさんのスケッチ的表現手法をある種の模範としつつ、
  有能な作画家たちとともに、新作映画で、また別の新しい表現に取り組んでいます。バック作品は、今なお、私たち後輩にとって、
  アニメーション映画の新たな表現を生み出すための汲めども尽きぬ源泉であり続けているのです。
  (「熱風」2011年6月 今こそ見直すべきバック作品 ― 2011年4月19日、フレデリック・バック展 記者会見より 高畑勲)



                          *


  以前、自分の誕生日の昭和十二年十一月十一日の新聞を見たことがあります。
  トップニュースは盧溝橋事件。表も裏も全部中国での戦闘の記事で埋まっていて、日常的な事件は何もない。
  それを読んだ時に、なるほどと思いましたね。これこそが戦後に言われた「軍国主義」の真の姿だなと。
  中国の戦闘より重要なものはないということが、メタメッセージになっているんです。

  メタメッセージというのは、伝えるべき本来の意味を超えて、別の意味が伝わってしまうことです。
  (…)中国での戦闘記事をいくつも載せることで、読者に「戦争こそが最重要」と印象付けたわけです。
  おそらく、国内のどこかで火事だって強盗だって起こっていたでしょう。でも「それがどうした」ということだったんでしょうな。
  (養老孟司「猫も老人も、役立たずでけっこう」みんな〇・二ミリの卵 より)

「銀河英雄伝説」で「どんな正論も雄弁も、この一言にはかなわない」というアッテンボロー中将の一言「それがどうした」を思い出しました。
メタメッセージとして可視化されないメッセージがメディアをにぎわせます。
「日常?それがどうした!」「民主主義?それがどうした!」「有権者を買収?それがどうした!」・・・
それに対して「ふざけるんじゃない」(by養老孟司)と怒ることは、大事なことだと思います。




                          *


  「こころの天気図」を読んで、手紙を下さって、「こうして手紙にいろいろ書いただけで、すっきりサッパリしました」と
  おっしゃる方が、ずいぶんおられました。書くだけですっきりするということは、ほんとうに起こります。
  書かれた文章を読む時に「対話的」に読んでおられるんですね。―(河合さんはこう言うてるけど、私はこう思ってる)とかね。
  (河合隼雄、聞き手 工藤直子「こころの天気図」第7章 相談する 相談される より)

「とかね」というのが、いいなと思います。加藤周一ふうに言うと「しかし それだけではない」ということだと思います。
「対話的」な気分が「とかね」に省略されていて、いいなと思います。河合先生の文章の後に「とかね」を入れて読むのも面白いと思います。
聞き手の工藤直子さんというと「てつがくのライオン」の詩が思い浮かびます。

  ライオンの哲学は、「ああ、なんていいのだろう。ライオン、あんたの哲学は、とても美しくて、とてもりっぱ」と、
  かたつむりは褒めちぎっているが、ライオンの見ているのは「夕焼けの空」なのだ。(…)私は夕焼けを見ずに、書物を見て
  哲学しようとした。そんなのできるはずはない。
  (「工藤直子 詩集」解説 河合隼雄 より)

河合隼雄他著「学ぶ力」のなかの、河合先生のフルートの話、「フルートというのはメロディだけです。(…)だんだんやっていきますと、
同じラと吹いても、どういう和音の上に乗っているラか、和音のことをちゃんとわかって吹かなければならないと先生に言われるんです」という話と
重なると思います。「哲学」が「どういう和音の上に乗っている」のか、「哲学」だけ読んでいても、なかなか「哲学」できない。

   ライオン

  雲を見ながらライオンが
  
  女房にいった
  
  そろそろ めしにしようか

  ライオンと女房は

  連れだってでかけ

  しみじみと縞馬を喰べた

  (工藤直子「てつがくのライオン」所収 / 谷川俊太郎、工藤直子「ふわふわ」より)

「ふわふわ」を漢字にすると「不和不和」になります。
漢字にすると「ギスギス」してしまう。

  ひらかな は まるい

  とんがる の へた

  (工藤直子「ふわふわ・一」から / 谷川俊太郎、工藤直子「ふわふわ」より)

工藤直子さんは「ひらかな」で考える、ということを、あえてすることで見える世界を見せてくれるように感じます。

  『こころの天気図』で、忘れられないのは、「秘密」というテーマで話したときです。(…)
  人さまに公表できないものは、ゴミくずで、心の中にくず籠があるイメージ……汚れた部屋のイメージでした。
  河合さんは、それをこんなふうに言ってるんです。

  「秘密を、みがき砂にたとえましたけど、これは、真珠貝といったほうが、ぴったりしますね。
   秘密は、貝の中に投げ込まれた石みたいなものだと言えます。貝(人間)にとっては、石(秘密)は異物だけれども、
   それを、ずーっと包んでいくことで、真珠ができあがる。石がない人は、真珠もできない、ただの貝。」(『こころの天気図』)

  これ、すごくうれしかったんです。自分の中に、人に見せられない、ゴミくずがたまっている感覚があったんですが、
  それが真珠の素に変わった。
  (谷川俊太郎、工藤直子「ふわふわ」対談Ⅴ ふわふわが好き 工藤直子さんのお話より)

「石」が「真珠の素」だということ。
フランス・ルネサンスを代表する哲学者・モラリスト・乱世の政治家であるモンテーニュが、持病の結石という「石」という痛みを、
観察し問題提起したことを思い出します。
モンテーニュのオネトム(教養人士)の哲学、「裏取引」よりも「誠実さ」、「目的は決して手段を正当化しない」は、現代にも通じると思います。

  マキャヴェリズムは、国益のためならば、嘘も約束違反も、殺人さえも許されると説く。
  国家の安定こそが最高善とみなされていたからである。だが、モンテーニュはその考えに決して与(くみ)さなかった。
  裏切りと偽善は断固として拒むのだ。慣習などものともせず、いつでもありのままの姿を見せ、思うとおりのことを語る。

  彼は、本人の言葉を借りれば、「裏取引」よりも、「正々堂々の手段」、「率直さ」、「誠実さ」を好む。
  彼にとっては、目的は決して手段を正当化しない。国家理性のために自己の道徳的信念を犠牲にすることなど、思いもよらないのである。

  (…)公人は一度でも嘘をつくと、二度と信頼されない。その場はうまく取り繕ったつもりでも、
  長い目で見ると損をするのであり、合理的なふるまいとは言えない。
  (アントワーヌ・コンパニョン、山上浩継・宮下志朗 訳「寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門」1 社会参加 より)




                          *


新しく開始された「銀河英雄伝説」、映画版がキルヒアイスが死んでしまうところまで、マンガ版がホットパンチまで、いきました。
両方とも最後までいくようにと、映画館に足をはこんだり、単行本を買ったりしながら、ささやかに応援しています。

絵本版「ぎんがえいゆうでんせつ」があっていいかもしれないです。

  らいんはると は ほしをみていました

  やん・うぇんりー は うんざりしていました

とかね。

キルヒアイスが死んだことを、ミッターマイヤーは「ローエングラム公は、いわば、ご自分自身の半分を失われたのだ」と言います。
「わが友」とキルヒアイスの墓碑銘にきざんだラインハルトにとって、ミッターマイヤーが言うように “半身(モワチエ)” を失ったのだと思います。

  あなたがたのなかには、あらゆる種類の豊かさを、あふれかえるほど持ちあわせている連中がいる一方で、
  その〈半分(モワチエ)〉(…)が、門口で乞食をして、飢えと貧しさとで骨と皮だけになっている。
  それなのに、この貧困にあえぐ〈半分〉が、このような不公平を耐えしのんで、他の〈半分〉ののど元につかみかかっていったり、
  その家に火を放ったりしないのが、不思議でたまらない。
  (モンテーニュ、宮下志朗 訳「エセー 2」第三〇章 人食い人種について より)

モンテーニュは「エセー」に、フランス、ヨーロッパの現実が「不思議でたまらない」と言うインディオの感想を引いています。
インディオは、おたがいに相手のことを〈半分〉と言うそうです。
“僕の半分(モワチエ)” という友愛の情を自然に示すインディオの言葉を引くことは、自国への批判であるとともに、モンテーニュの姿勢が示されています。

「銀河英雄伝説」を最初に読んだり、見たりした時にはなかった、今、思ったことを書きました。半分(モワチエ)について。




                          *


ケン・ローチ監督「家族を想うとき」を見ました。

これは、日本の製造業の下請け、中小企業でも現在進行形でおこっている物語だと思いました。
大手の上場企業が過去最高益や過去最高の内部留保というなかで、中小企業が倒産していく、それはなぜか?
大手企業の下請けって「協力会社」じゃないの?下請法で守られているんじゃないの?・・・

例えば、大手企業から、下請けの「頭(あたま)」を受けてしまうと、自社以外の工程の管理を引き受けてしまうと、そこでアウトです。
既存の下請けの「頭」になるだけで売上は伸びる、利益も上がる、「こういうチャンスを待っていた」と受けるとアウトです。

売価は指し値で決められる、在庫は「ジャスト・イン・タイム(JIT)」と称して押しつけられる、あげくに厳しい品質で納期をせまられる。
製造過程で発生するロスは下請けへの「ペナルティ」で、下請けどうしで不良のなすりつけあいがはじまる、まだ使える可能性がある不良を選別したくても
納期や人件費を考えると後回しになる、よくわからない「製品」の山ができる。
良品しか買わない大手企業は、漁夫の利で、高品質の製品をリスクなく買え、もうかってしかたがない、という構図になります。

一方、中小企業の内部は内部で、製造業の下請けと言っても、役員クラスになると二代目、三代目で、株主の顔をして定時ダッシュで帰ってしまう。
たいへんなのは工場長以下です。もうからない「残業」を続けるうちに士気がさがってくる、つぶれるのも時間の問題です。
※ 定時ダッシュ:役員にとっての「定時」とは任意の時間から主体的に選び取られたものであり、あらゆる状況から超越した時間をさします

映画で救いなのは前半にでてきた「3本足の犬」だと感じました。この映画はケン・ローチ監督の映画なんだ、
という映画ということを意識させてくれることが、せめてもの救いだと感じました。




                          *



武論尊、原哲夫「北斗の拳」の物語の前半にでてくる、トキのニセモノ、「オレは天才だ!」というアミバみたいな人が現実の世界にもいて、
驚くのですが、それは個人的な問題だけでなく、社会的な問題でもあると思います。

さまざまな理由で、世の中が腐敗してきた結果として、救世主のように見える人もあらわれるし、実は救世主のニセモノ、アミバもあらわれる。
「きさまのことを一番知らなかったのは きさま自身だったな!!」というケンシロウのセリフを言える人があらわれるまで、
アミバのような人は、のさばってしまうとも考えられますし、世の中の腐敗がおさまれば、世の中が回復すれば、アミバのような人は自然と少なくなる
という考え方もできると思います。

上田秋成「雨月物語」の蛇性の婬で、そんな蠱物(まじもの)をやっつけるなんて簡単なことだと言うものの、逆にやられてしまう、
「鼻を高くして」あらわれる法師などはアミバの親戚のように感じます。
自分の能力を過大に宣伝しつつ「鼻を高くして」登場する人は、いつの時代にもいるという。



はるき悦巳「じゃりン子チエ」のテレビ版65話が、COMPLETE DVD BOOK として全6巻で発売されるようです。
チーフディレクターで高畑勲氏が、音楽で銀河英雄伝説の風戸慎介氏が、オープニングにクレジットされているアニメーションです。
オープニング主題歌、男性ボーカルの導入の後に高音のボーカルが飛び込んでくる感じは「北斗の拳」のオープニングとも通じていると思います。

発売された1巻には、第11話「金賞!チエちゃんの作文」が入っています。
「大阪府主催作文コンクール 金賞」のチエちゃんの「作文」でのウソは、単なるウソではなく、「どういう和音の上に乗っている」ウソなのか。
そういったことも考えさせられる話です。

「ノイローゼ」のチエちゃんが布団から出ていった後のところで、セリフが一部消されているように見えました。
せっかくの「COMPLETE」なので、そういったところはブックレットで異同の注を入れてほしいところです。
ここは、こういう理由で、このように、放映時から変更されています、という具合に。


   見晴らしよい叙事詩  井上ひさし
    徹底的な大阪弁と登場人物が常用する独白に笑わされ、
    大人より子どもが大人らしく、猫が人間より人間らしく、猫の目のように移りかわる視点が
    物語世界に奥行きを与えているこの作品は近来、出色の通俗・大衆・娯楽・滑稽小説のひとつと言い得よう
    (朝日新聞 / 文芸時評 より)

「猫の目のように移りかわる視点」という、「視点」がスパークすることで「全体」が見えるかもしれません。

  カニバリズムは、(窮乏時に、もしくは人肉への嗜好のために)食糧的でも、(犯罪者の懲罰もしくは敵への報復として)政治的でも、
  (故人の美徳に同化するため、あるいは逆に、その魂を遠ざけるために)魔術的でも、(死者を祀ったり、円熟を祝ったり、あるいは農耕の
  豊穣を保証するための、宗教的崇拝ないしは祭礼に属するなら)儀礼的でもありえる。そして、カニバリズムは治療法にもなりえる。(…)
  現在ではごく当たり前の行為になっている臓器移植などが最後に挙げた範疇に属するものだということに、もはや議論の余地はないだろう。

  (…)ジャン=ジャック・ルソーは、他者と同一化するようにわれわれを駆り立てる感情が社会生活の起源にあるとみなした。
  他者を自分と同一化するいちばん単純な手段は、何をおいてもまず、他者を食べてしまうことである。
  (クロード・レヴィ=ストロース、渡辺公三 監訳・泉克典 訳「われらみな食人種(カニバル)」われらみな食人種 より)

“視点をかえる”、という言葉を「いちばん単純な手段」で言いかえると、“視点を食べる”、になると思います。
食べられた「視点」は消化され身体の一部になる。
三年喪に服すというのも、レヴィ=ストロースの視点から見れば、三年かけて行う「カニバリズム」なのだと思います。
輸血も「治療法」としての「カニバリズム」、人が死に土にかえりその土を栄養とした木の果実を食べるのも「カニバリズム」、という見方ができます。

学生の時に、レヴィ=ストロースの「器用仕事(ブリコラージュ)」を知って、面白いなと思いました。
「器用仕事(ブリコラージュ)」というのは、それが幻想であれ、“全体の認識が部分の認識に先立つ”という感覚なしには成り立たない。
「カニバリズム」によって「全体」が認識されるような感覚は、それが幻想であれ、面白いと思います。

例えば、ラ・ロシュフコーの「自己愛」、フロイトの「エディプス・コンプレックス」、オルテガの「大衆」も、そういうような言葉なのだろうと思います。



                          *


         智は、いつも、情に一ぱい食わされる。  ラ・ロシュフコー
         (鷲田清一 折々のことば 2019・12・30 より)

「情」がいいなと思いました。「情」は、感情であり、情(こころ)でもあります。
“ 情以新為先(こころハ あたらシキヲ もって さきト なス)”という藤原定家の言葉を思い出します。
「情」という新しいものに、ただ新しいというだけで、知性は「一ぱい食わされる」ところがある。「情」報に踊らされてしまう。

モンテーニュの懐疑主義の大事さを思います。

  モンテーニュのものの考え方は、懐疑的とか懐疑主義とか評されています。
  フランス語では、sceptique, scepticismeと申しますが、この語のギリシア語原は、skeptomaiであり、
  その本義は、「検討する、調査する、探求する」ということだそうです。
  したがって、懐疑主義は、「わからぬ、知らぬ。」とつぶやくことではなくて、眼前にあるものを十分に検討して、
  より正しいものを探求することを意味します。(…)

  こういう意味での懐疑主義は、モンテーニュのつぎのことばにも、うかがうことができるでしょう。
  「掻き立てたり、狩り立てたりするのが、正(まさ)しく我々の仕事である。
  その狩り立て方が下手で当を得ていなかったら、我々は言い訳ができないことになる。
  しかし、獲物を捕らえ損じても、それは別問題である。そもそも我々は、真理を探し求めるように生まれてはいるが、
  これを捕らえることは、もっと偉大な力のなすことだ。」(『エセー』第三巻第八章)
  このことばは、煮え切らないようにも見えますが、ひじょうにたいせつな心がまえを示してはいないでしょうか。
  (渡辺一夫「ヒューマニズム考 人間であること」7 宗教戦争とモンテーニュ より)

「そもそも我々は、真理を探し求めるように生まれてはいるが、これを捕らえることは、もっと偉大な力のなすことだ。」のところで、
オルテガの “ 思想とは、真理にたいする王手である(An idea is a putting truth in checkmate.)”という言葉を思い出します。
この言葉がでてくる「大衆の反逆」第八章には、以下の言葉があります。
“ サンディカリスムとファシズムの種族のもとに、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、
自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現われたのである。(…)
かれらの《思想》は恋愛詩曲のようなもので、ことばを吐きだしたいという欲望以外のなにものでもない。”

「サンディカリスムとファシズム」の欲望と、「思想とは、真理にたいする王手である」という「王手」でとどまる懐疑主義の誠実さとの、落差を感じます。



                          *


鷲田清一「岐路の前にいる君たちに ― 鷲田清一 式辞集 ―」を読みました。
本屋で見て、こういう本が出版されてほしい、という本が、ちゃんと本の形になっていると、うれしくなりました。
「ひとり集団のなかへ入ってゆくときの不安」(2010年度 大阪大学卒業式・学位記授与式 式辞 より)に、こたえてくれる本だと感じます。

  大学において真理の探究という仕事に就くことと、一市民として他の苦しんでいる人びとを思いやるということとは、
  想像力のいとなみであるという点で、異なる二つのことではないのです。想像力とは、いまここにないもの、不在のものへと向かう
  心の動きのことです。まず、思いやりとは、自分では体験しようのない他人の心の内を想像するいとなみです。
  次に、科学研究とは、眼の前で起こっている出来事がどんな見えない規則や構造によってそのように起こっているかを
  論理的に突きつめる作業のことです。そして宗教もまた、この世をここではなく、向こう側(あの世という〈外〉)から捉えなおそう
  とするいとなみであると言えるでしょう。それに、見えないけれど大事なものをキャッチし、形を与える芸術、さらには空想やファンタジーまで
  含めると、想像力とはわたしたちの文化をかたちづくるもっとも基礎的な力であることが見えてきます。
  (鷲田清一「岐路の前にいる君たちに ― 鷲田清一 式辞集 ―」2011年度 大阪大学入学式 告辞 より)

“出来事とは偶然性の一つの様式でしかなく、その構造への統合(必然的とみなされる)が美的感動を生み出すのである”
(レヴィ=ストロース、大橋保夫 訳「野生の思考」第一章 より)を思い出します。
眼前で起こる出来事(偶然)から構造(必然)を論理的に突きつめる科学は、想像力であるということ。
「想像力」という言葉によって「全体」が認識されるようにも感じます。

他にも気になる言葉をあげていくと、器用仕事(ブリコラージュ)、人間性(humanity)と人文学的教養(humanities)、視差(parallax)、
義務あるいは感謝(obligation)、幸福が何であるか、いのちの世話、狩猟、民主主義、平均化、カニバリズム、等々読んでいるうちにいろいろ考えてしまう、
たくさんの窓が開いている本だと感じます。

「マッピング」のところでは、本文とは関係ないのですが、パソコンゲームの「ウィザードリー」を思い出しました。
さあ、今日もマッピングするか、という感じで、紙と鉛筆を用意してから「ダンジョン」におりていったのを思い出します。
ゲームボーイ版の「ウィザードリー」がオート・マッピングで、そのゲームを「ウィザードリー」と呼んでいいのかな?と思っていました。

どこかに閉じ込めようとする本ではなく、たくさんの窓が開いている本だと思います。




                         *


2020年1月1日の、100分deナショナリズム、よかったです。

アンダーソン「想像の共同体」による見方、
フランス革命という「下からのナショナリズム」が起こり、明治維新という「上からのナショナリズム」が起こる。
そこから、安部公房「方舟さくら丸」へと行く流れがすばらしいと思いました。ナショナリズムという概念が躍動していました。
他者と一体化したいという欲望において、ナショナリズムとカニバリズムは重なってくると思いました。
そうすると、外資というカニバリストと、国内のナショナリストが、お互いに同類としての親しみを感じる理由が見えてきます。
(レヴィ=ストロースの視点は、番組での視点同様、カニバリズムと「どうつきあっていくか」を「考える」必要を要請します。)

この番組は、100分de「方舟さくら丸」でもあると思いました。

大澤真幸さん、島田雅彦さんのお二人は、20年ぐらい前にも教育テレビで安部公房について話をされていて、
島田雅彦さんが安部公房の小説について、安部公房は日本に満州を植民しようとしたのではないか、というような話をされていたのが印象に残っています。
「方舟さくら丸」の不気味さとも、通じる話だと思います。

ナショナリズムによる線引きの話として、誰が「わたしたち」で、誰が「彼ら」なのか、というのがあると思います。
誰が「わたしたち」として選ばれ、誰が「彼ら」として排除されるのか。

  だって、仕方がないだろう、事実上おまえの染色体の半分は、私の精液なんだからな。
  (安部公房「方舟さくら丸」17より)

この話を聞いた「もぐら」には、自分が、半分(モワチエ)として選ばれた存在であるという嫌悪感がありました。
ただし、いまの日本、「新自由主義」という名の「中世」が、あえて言えば「暗黒の中世」が、訪れようとしている日本では、
排除される悲しさ、選ばれない苦しみが、日本人の前面に出てくるのだと思います。

一方で、いまの日本社会に喜んで入ってくる人は、日本人を「食い物」にしようとするカニバリストが多いでしょう。
(最近の事例、郵便局が高齢者を「食い物」にした、という事実は、思わぬところからカニバリストが出現した印象があります・・・)
そうなると若い日本人は、排除される悲しさなどなく、「食い物」として選ばれないように抵抗する、できれば日本から出たいと思うようになる。
そして、日本人とともに苦しむ、福島原発に水をかけ続けようとするような外国人は、ドナルド・キーンさんが最後だった、ということになりかねません。

  キーン: 私はヒットラーその人よりも、はっきり言って周囲のほうが恐ろしい。みんな立って、手を挙げて、「ハイル・ヒットラー」とやっている、
       あの輝く眼、明るい眼の人たちは、ほんとうにこわい。(…)要するに、澄んだ明るい眼というのは、なにも考えていない人の眼です。
  安部 : そのとおりです。(…)
  (安部公房、ドナルド・キーン「反劇的人間」第七章 情報とドラマ より)

「なにも考えていない」、つまりここでの「考える」の意味、「考える」というブレーキがこわれたナショナリスト・カニバリストの姿が
「澄んだ明るい眼」によって可視化されます。そして、それがファシズムの姿なのだと思います。

ヤマザキマリさんが、安部公房は桜が嫌いだった、ことに言及されていました。

  ぼくは桜の花が嫌いだ。闇にたなびく雲のような夜桜のトンネルをくぐったりするとき、
  美しいとは思う。美しくても嫌いなのだ。
  (安部公房「死に急ぐ鯨たち」サクラは異端審問官の紋章 より)

美しくても桜は嫌い、汚くてもゴミは見ようとする、それが安部公房のスタイルだったと思います。

思い立って、1999年3月に録画していたETV特集「安部公房 複眼の冒険者」を見ました。
もっとも大きい「なわばり」への憧れが国家で、もっとも小さい「なわばり」への憧れが禅である、ということを言われていました。
もうすぐ安部公房さんが亡くなられて27年です。




                         *



       戦争の90パーセントまでは、後世の人々があきれるような愚かな理由でおこった。
       残る10パーセントは、当時の人々でさえあきれるような、より愚かな理由でおこった……
       (宇宙暦799年7月22日 ヤン・ウェンリー退役元帥の文章より)


                         *


       私は少しだけ歴史を学んだ。 それで知ったんだが、
       人類の社会には思想の潮流が二つあるんだ。
       人の命以上の価値があるという説と、命に勝るものはないという説とだ、
       人は戦いを始めるときに前者を口実にし、やめるときに後者を理由にする。
       それを何百年、何千年と続けてきた……
       (宇宙暦796年10月 ヤン・ウェンリー中将の言葉より)


                         *


  文化がそれぞれ多様だと自認すれば、他の文化を意図的に無視することもできるし、お互いに対話の相手として認め合うこともできる。
  どちらの場合にも、異文化は相互に脅威であり、ときに戦うこともあるが、双方の存在そのものを窮地に陥れることはけっしてない。
  だが、双方が認めた多様性の概念が、一方の極で力関係にもとづく優越感に変わり、文化相互の多様性が肯定的または否定的な形で
  認められていたのが、文化のあいだに不均等があるという断定に変わると、状況は一変する。
  (クロード・レヴィ=ストロース、渡辺公三・三保元・福田素子 訳「人種と歴史/人種と文化」人種と文化 より)

「多様性」という、関係性のなかで動き生きる概念が、息のねをとめられることがあるとすれば、
関係性という湖から、「多様性」という生き物を殺してしまうことがあるとすれば、それは何かを始める準備なのだろう、ということは想像できます。
「多様性」は、荘子に出てくる、いじくりまわして殺してしまった渾沌(こんとん)と似ていると思います。
儵(しゅく)も忽(こつ)も、渾沌と居ると、とてもリラックスできる。



                         *


日次決算(サービス業など)、月次決算(製造業など)、年次決算(農業など)という時間感覚。
つまり、その時間感覚は入金のタイミングによって分節されることになります。
どれだけ売上があがっても、入金がなければ貸倒れです。
入金に最後の注意が必要になってくる、そこで締めるという感覚が生じてくる。
日々お金が入ってくるサービス業は日次決算的になり、月々の入金である製造業は月次決算的、毎年の収穫に期待する農業は年次決算的になる。

仕事を選ぶにあたって、仕事を仕事で選ぶということも大事ですし、
その仕事がどういった入金の構造になっているのかに注目して選ぶということも大事だと思います。
それが自分の時間感覚となじむかどうかということ。

   男といると心が癒されました
   (…)
   男は何事に対しても自然体でした
   (…)
   3年前からこの荒れ地に木を植えていて
   既に10万個の実を埋めました
   2万個が芽を出しますが
   その半分しか成長しません
   (…)
  「30年もすれば、1万本のナラは見事でしょうね」(若者から男への感想)

  (フレデリック・バック監督「木を植えた男」より)

若者は、男のしていることに「30年」という時間感覚を感じます。
時間感覚が長くなればなるほど、経済からは遠くなっていくのでしょう。
男は「入金」とは無関係に、ただ木を植え続けます。

男の名はエルゼアール・ブッフィエといいます。
ブッフィエと居ると、とてもリラックスできる。




河合隼雄先生の「白鷺(しらさぎ)のお話」を思い出します。

   私は自然との関係に絞って話をしています。
   そういうふうにみますと、例えば(…)白鷺のお話しは、
   一生懸命、白鷺が恩返ししようとしますが、力尽きて死んで、社も燃えてしまう。
   「なんだ」と言いたくなるようなお話です。

   これを、ちょっと考え直しますと、私はこんなことを思うんです。
   白鷺が傷ついて湖岸にたどり着きます。そこへ大国主尊(おおくにぬしのみこと)がこられて
   不思議な泉で治癒してもらう。その恩返しに、火事を消そうと必死になるけれども、死んでしまった。

   流れ着いたと同じ場所で死んだということはどういうことかというと、ファクトと言いますか、
   自然科学的事実から言えば、一匹の白鷺が傷ついて湖岸で死にました。で終わりです。
   ところが、そこに大国主尊がきたとか、不思議な泉で治癒してもらったとか、白鷺が恩返しのために力尽きて死んだという物語、
   この物語がでてくることによって、死んでいる鷺と私との間に関係ができるんです。

   つまり、ただ白鷺がきて湖岸で死にましたといったら、「ああ、死んでるわ」で終わりなんですね。
   ところが、この白鷺は、社の火を消すためにどんだけ頑張ってくれたか、と考えると、その白鷺をどこかに葬ってやらねばならない、
   あるいは、その話は書き残しておこう、とか死んでる白鷺と私の間に深い関係ができる。

   これが、物語というものの特徴ではないかと思っています。だから、物語というものは、物事をつなぐ力を持っている。
   一匹の白鷺が死んでいるとき、われわれは通りすぎることが多いんです。「あっ、死んでる」、それだけの話なんです。
   しかし、白鷺の背後の物語が分かると、通りすぎることができない。一匹の白鷺の死に対して、いったい、われわれはこれから
   どうしたらよいのか(…)物語というものはいろんなところをつなぐとともに、いったい、私はどうすべきであるかとか、
   こうした方がいいんじゃないかとか、いろんな考え方が生まれてくる。
   (河合隼雄「これからの日本」湖の物語 より)

「ファクト」で言うと、ブッフィエは木を植えて死にました、で終わりなのだと思います。
それどころか、そもそもブッフィエは実在しないということになってしまいます。
しかし、この「木を植えた男」という短編アニメーションを見ることで、ブッフィエと私との間に関係ができます。
木を植えるためにどんだけ頑張ってくれたか、と考える、私の心が動く、ブッフィエと私との間に関係ができる。
「物語というものは、物事をつなぐ力を持っている」ということを感じさせてくれるアニメーションでもあると思います。



                          *



2020年2月1日、上原彩子 ピアノ・リサイタル(大阪・いずみホール)に行ってきました。
モーツアルト×チャイコフスキー「オペラ的、最上のカンタービレ」のタイトルのように、モーツアルトとチャイコフスキーのピアノ曲が、
交互に演奏されました。アンコールも、チャイコフスキーから一曲「なぜに」(上原彩子 編)、モーツアルトから一曲「トルコ行進曲」と、
一曲ずつ演奏されました。

5年前の伊丹市の演奏会で、上原さんのモーツアルトがすごくいいなと思いました。今回のモーツアルトもよかったです。
上原さんのモーツアルトは、自然のなかで育った野菜が、味が濃くておいしい、という、そういう自然なモーツアルトのような気がします。
ピアノ・ソナタだけでなく、アダージョK.356とかの小品も、なんだかわからんけどすごい、と感じます。




                          *



2020年2月2日のサンデーモーニングで、相撲の行司が身につけている短刀について話題が出ました。

結びの一番で差し違いをした行司は、その短刀で切腹するという覚悟を示しているということ。
この「行司の短刀」は日本文化を象徴していると思います。

ザビエル山田さんが指摘したように、この短刀で切腹した行司はこれまで一人もいません。
切腹するというポーズだけで短刀をさしている。日本の建前文化の象徴と言われます。
責任をとる、というふりはするけども、決して責任をとらない。

  あの小説の中で、主人公のトマーシュは政治を諷刺するエッセーを書いて権力者の怒りを買った。  

  かつてソ連の秘密警察にだまされてたくさんの無実の国民に死刑を宣告していたチェコの検事は、
  知らなかったとはいえ罪を犯したのではないか。そうトマーシュは考えた。
  だから彼はギリシャ神話のオイディプスを引用して検事たちの例と重ねてみせた。
  知らぬまま罪を犯したオイディプスは自分の眼をくりぬいたではないか。

  オイディプスの神話はこういう話だった。彼は神々の呪いを負って生まれた。
  父を殺し、母と交わると予言されていた。その実現を恐れた親から捨てられたのに、成長した後、
  知らぬままに父を殺し、母を妻にしてしまった。彼は自分の運命に絶望し、盲目になって荒野をさまよう。

  トマーシュはその話を現実の政治に重ねた。同じ論法でいけばチェコの検事も自分の眼をくりぬくべきではないか。
  (…)官僚たちが責任をとらないのはどこの国にでもあることだ。
  水俣病は本当に悲惨なことで、明らかに人為的な過失の結果だったけれども、監督する立場にあった行政の側は
  誰も責任を取らなかった。当時としてはわからなかったという論法で済まされてしまう。
  (池澤夏樹「池澤夏樹の世界文学リミックス」クンデラ『存在の耐えられない軽さ』より)

「自分の眼をくりぬいた」り「切腹」したりは、しない。
それどころか「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」と言い出し責任を転嫁しだす。まさに「苦渋の決断」です。
日本では、孔明は人気ものです。
現在の日本では何か問題が起こると、憲法に責任を転嫁する、というのが流行のようです。
「行司の短刀」は、いろいろと考えさせられるものがあります。
決して責任はとりません、という象徴としての「行司の短刀」。



                          *


池澤夏樹 映像作品全集
「我々はどこへ行くのか 池澤夏樹とゴーギャン 文明への問いかけ」(ジブリ学術ライブラリーSPECIAL)を見ました。

ゴーギャンが、ケルト文化が色濃く残っていると言われるフランスのブルターニュ地方で「白い鳥」をよくえがいていた、
というお話が印象に残りました。
  ケルトで白鳥は、人間が生きる現実の世界と、精霊たちが住む別世界を行き来して、人間に知恵をさずける存在
と、ナレーションでありました。

池澤夏樹さんは “ 白い鳥はゴーギャンのトーテムだった気がする ” ということを言われていました。
トーテムとは、特定の民族が自分たちの象徴として崇拝する動植物などの自然物、とのこと。

河合隼雄先生にとって白鷺はトーテムだったかもしれない、と思いました。
各地にある「白鷺伝説」には、白鷺が人の心や体を癒してくれる温泉を発見した、というお話が残っています。
臨床心理学者の河合隼雄先生には、そういった人の心や体を癒す温泉を発見する白い鳥、白鷺と重なるところがあると思います。

自然科学的事実、「ファクト」からすると、河合先生の人生は、河合隼雄という人間が生まれてカウンセリングをして死にました。で終わるかもしれません。
でも、そこには何重にも物語があって、そこでの「私」は物語ることでわかってくるし、その物語は「私たち」と無関係ではない。
人間の中心にはトーテム(物語)がある、ということを思います。




                          *


 警備員の募集1人に、大卒500人が応募する。

という、ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」でのセリフは、

 宝塚市の「氷河期世代」職員採用4人に、1635人が1次試験を受験する。

という、日本の現実と重なると思います。

「氷河期世代」のイメージとしては、
「おまえのかわりなんか、いくらでもいる」と言われてきた世代であり、
「シュレッダーがつまるほど履歴書が送られてくる」世代であり、
必死に働いているのになぜか「寄生虫」あつかいされる世代。
あまりに大事にされないので、採用が少ない割に大量に辞めていき、かえって「絶滅危惧種」とも言われる世代。
第2次ベビーブームが、バブル崩壊後の1997年消費税5%へ増税の就職難のなか、「社会人」になった人たちに象徴される世代です。

ただ、そうであればこそ、1974年生まれ45歳の山本太郎さんの、一人一人を大事にしようとするお話に、
素直に感動できる世代でもあると思います。
1974年は「狂乱物価」と言われる時代で、「ややこしい時に生まれてきた」と言われて育った世代でもあります。

私には「世代なんか関係ない」と言う矛盾、私には「世代なんか関係ない」と思う抑圧。
私たちは「自己責任」で生きている? それは、あまりにも楽観的な考え、絶望がたりない。

  自分で外すしか外しようがない足枷(あしかせ)だからね。でも頑丈(がんじょう)すぎて取れなかったら、
  それをかけたやつの責任が、それが取れるまで問われ続けなければならない。
  (安部公房「死に急ぐ鯨たち」錨(いかり)なき方舟の時代 より)

映画で、必死に努力して「パラサイト(寄生)」するキム一家は、単なる「スネかじりの寄生虫ども」ではないと感じます。



                          *


神話の「創世神話」について。

  ケルト神話の面白さは、「世界の始まり」が記されていないところにある。(…)
  世界のあらゆる神話は創世の物語を持っているのにもかかわらずである。
  (…)
  ケルトの神話は、「こういう島へ先祖はいかにして入り込んできたか」というところから始まるのだが、
  先祖がどこから来たかについては何も記していない。
  そもそも、この島はどうしてできたかということさえ記されていない。
  「ものごとの始まりを考える」というのはひとつの考え方だが、「そんなことは考えない」というのもまた、
  ひとつの考え方なのである。

  車の渋滞を例にとろう。
  「先頭の車がゆっくり走るから渋滞する」という考え方はおかしい。
  道は全体の交通量が増えてきたときに、自然に渋滞しはじめるのである。
  「どこから始まったか」と考える方が間違っているのだ。
  渦巻きのように、どこから始まっているのかが判然とせず、「まぁ、ここらへんから始まってますよ」というのが
  ケルト的なのだと私は思う。

  日本の神話も、イザナギ、イザナミのくだりあたりから始まるものであったのではないだろうか。
  しかし、日本が中国や朝鮮と付き合いはじめると、他国に対抗するだけの神話が必要になる。
  そのとき、「もののはじめ」も語らねばならないからと、はじめの方を付け足したのかも知れない。
  というのは、はじめの部分には中国の影響が強く、いわゆる「外圧」によって作られた可能性があるのだ。
  『日本書紀』などは、明らかに外圧を意識して書かれたものである。
  (河合隼雄「ケルトを巡る旅」Ⅰ ケルトへの思い より)

ケルトの神話と日本の神話との共通点として「創世神話」がない、という可能性は面白いと思います。
「まぁ、ここらへんから始まってますよ」という神話。そういった曖昧なところが寛容の精神と結びつけばいいなと思います。
私たちがこの土地に住んでいる正当性を示すため、「外圧」によって日本の神話に「創世神話」が付け足された可能性。

  ナバホの人々はより広くリザベーションとして認めてもらえるように、アメリカ政府と何度も条約を取り交わした。
  他の部族のリザベーションにくらべれば広いとはいうものの、ナバホの創世神話で語り継がれる土地の広さには及ばない。
  (ぬくみ ちほ「ナバホの大地へ」第二章 ナバホへ行くまで より)
  ※ リザベーションとは、先住の部族が暮らす土地としてアメリカ政府と条約を結んだ区域のこと、“保留地”や“居留地”と訳されることが多い、とのこと。

アメリカの「インディアン」ナバホの人々の領土について「創世神話」が引き合いにだされています。
「創世神話」がある、というより、外交的には「創世神話」がないと仕方なかった、という視点は大事だと思います。




                         *


  『我々はどこから来たのか? 我々は何者なのか? 我々はどこへ行くのか』(1897年)
  ― ゴーギャンの作品中、最大かつ最も有名なこの作品は、ゴーギャン自身によれば「筆の先で、
  結び目だらけのざらざらの麻袋のカンヴァスに描いたから、非常に粗削りに見える」という。
  この絵には、人間の誕生から死に至る歴史が絵巻物のように展開されている。
  (フランソワーズ・カシャン、高階秀爾 監修、田辺希久子 訳「ゴーギャン 私の中の野生」第6章 情熱の最後の輝き より)

人間の「歴史」でもあるのでしょうけど、人間の「全体」が描かれているように感じます。

  ユングはよく、こんなたとえ話をした。
  「旅行をしていて、行先のわからない人は不安だろう。『どこに行くのかわからない汽車に乗っています』などと
  いう人はいない。ロンドンやベルリンといった目的地を承知して旅する人たちは、行先の町や観光先の状況を
  ある程度知っている。そういう人たちに不安はない」
  つまり、死後どこに行くかを知っている者ほど心は安定しているという考え方だ
  (河合隼雄「ケルトを巡る旅」おわりに~日本人がケルトから学ぶこと より)

「我々はどこへ行くのか」という問いかけには、「どこに行くのかわからない」と答えるしかないように思います。
「Back to the Future」つまり「われわれはすべて背中から未来へ入って行く」のでしょうから。
ただ、「全体」として見た場合こうではありませんか、というのがゴーギャンの絵のような気がします。

人間と自然、安定と不安、生と死、つまり、人間の「全体」なのだと思います。
ゴーギャンの絵の中央付近にいる猫が国芳っぽいのも、この絵の魅力だと思います。




                         *


  こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」(…)にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。
  「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階にまで
  登りつめた、と自惚れるだろう」と。―
  (マックス・ヴェーバー、大塚久雄 訳「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」禁欲と資本主義精神 より)

ものごとを「あるがままの大きさ」で認識することの難しさ。
そうであればこそ、様々な情報を「太い河川」へと合流させていくのが、意思決定をする者の使命だと思います。
上に立って威張るのではなく、間に入って考えていく。

自惚れて心ない言動をする政治の「専門家」が、感染症の心ある専門家の情報を潰す方向に動く、というのは見ていておそろしい。
自然とのつきあいかたを忘れた「末人たち」のふるまいに見えます。
ウィルスは権威に平伏しません。



                          *



2020年2月の100分de名著は、チェコ文学者の阿部賢一さんによる、ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』でした。

チェコというと、ヤン・シュヴァンクマイエルの短編アニメーション「男のゲーム」に強烈な印象があります。
マルティン・カシークのCD「プラハのショパン」(邦題)がよかった、という印象があります。

  「並行世界(パラレルワールド)」や「パラレル・ストーリー」は、フィクションの世界でしばしば耳にする表現です。
  また、一九六〇年代後半にアメリカで盛り上がりを見せたヒッピームーヴメントの中から、西欧的な考え方とは異なる
  「パラレル」な世界を求めて、東洋思想へ傾倒する人も多く現れました。

  しかし、ハヴェルは、そうした動きを「ゲットーへの逃避」「孤立行為」と批判します。かれは、「並行構造」とは
  フィクションの中に閉じこもったり、どこかに逃げたりすることではなく、「本質的に世界に開かれ、世界が担う責任」を
  伴わなければならないと主張します。

  かれの試みた「並行構造」は、閉鎖的で結社化した組織で好きなことをする、というものではありませんでした。
  世界やほかの並行構造に開かれたものだったからこそ、ハヴェルによって横の繋がりを持ち、ネットワークを
  つくることができたのだと思います。
  (阿部賢一「100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」第3回 並行文化の可能性 より)

閉じている方の「パラレルワールド」に、なんとも言えないリアリティを感じます。

  感染症対策は専門家が専門的知見に基づいて管理すべき事案であって、政党支持率や景況とは関係がない。
  ということを、どれだけの人が自覚しているだろうか。
  今回のコロナウイルスの政府の対策会議は1月30日の第1回から2月14日の第9回まで
  一人の感染症専門家もなしで開かれていた。会議時間は10分から15分。
  ここで感染症対策についてのテクニカルな議論が深められたと信じる人はいないだろう。
  (「AERA」2020.3.2 №11 内田樹のコラムより)

現実と接点を持たない「パラレルワールド」で開催された「パラレル会議」と感じます。
そして、その会議の「成果」の一つ、「清潔ルート」と「不潔ルート」をコネクトしてゾーニングというのは、あまりにも悲惨です。

そこにどんな悲惨な現実があったとしても、そこに集う人たちの行いが高貴であれば、そこは高貴な場となります。
しかし、「パラレル」たちの行いは、あまりにも悲惨だと思います。
「パラレル」たちによる「パラレル管理」が悲惨を拡大させます。



                          *


2020年2月24日放送 ファミリーヒストリー フジコ・ヘミングを見ました。
レオニード・クロイツァーとフジコ・ヘミングのつながりが語られていてよかったです。

2020年1月のフジコさんのコンサートできいた、ベートーヴェンのテンペスト第3楽章がすごくいいと思いました。
クロイツァーのベートーヴェンもすごくいいです。
番組内でフジコさんがテンペスト第3楽章を演奏する様子がながれていました。
クロイツァーの来日が、1930年代です。
1920年、30年代のピアノの自由さが番組内で言われていましたが、その精神がベートーヴェンの演奏のよさにつながっているようで面白いです。
その年代の他の演奏家としては、ヨーゼフ・ホフマンのピアノも自由な感じがしてすきです。
フジコさんは、おととし腰を悪くして一人で歩けない、ということをコンサートで言われていました。
フジコさんのピアノをまたききに行ければと思っています。




                          *


感染症の拡大と、花粉の季節にマスクが店頭にない、という現状に、イースター島の文明を思います。

  「文明崩壊」という本で、イースター島が紹介されている。
  島の環境が破壊された結果、文明が滅んだ例としてだ。

  1700年代、ヨーロッパ人が島にやって来た時、どのモアイ像も立っていた。
  だが島の人口が増えると、島民は部族に分かれ、より大きなモアイ像を作ることに、しのぎを削った。
  それが社会最大の関心事になった。生き抜くことよりもね。

  そして、巨大な石像を運ぶために、島中の木を切り倒した。
  島の資源を使い果たすほど石像作りに執着した結果、戦争や共食いが起きた。
  やがて、島の人口は、3万から111人までに減少した。

  著者のJ・ダイアモンドと話したことがある。
  過去の文明がいかに崩壊していったのか、我々の社会にどんな意味があるのかと聞くと、
  我々は先人と同じ過ちを犯していると言った。
  地球にも当てはまる話だ。
  すると、モアイ像が違って見えてきた。
  A・ハックスリーの一節を思い出し、妙に納得した。
  “ 人間は歴史から教訓を学べない、その事実が最も大切な教訓である ”
   (クリス・マロイ監督「180°SOUTH」より)

人間は、同じあやまちを、何百年、何千年、何度も繰り返す・・・
という歴史観は「銀河英雄伝説」と通じると思います。
あやまちの象徴としての「モアイ像」。


  イースター島という小さな島は、太平洋という大きな海の真ん中の絶海の孤島ですね。
  人々はその島の森を食べつくしてしまった。
  その結果、船も造れなくなって、魚を獲れない。島の中の食糧もなくなった。
  しかし、どこにも逃げていくことができない。そして最後に、文明は滅んだ。

  このイースター島は、現在の地球と同じなんだな。
  地球というのは、宇宙という広大な海の中にぽっかり浮かぶ島です。
  地球を出て宇宙に行っても、森はない。森は地球にしかありません。
  この地球の森を食べつくしてしまったら、どういうことが起こるか。
  その先、イースター島ときっと同じことが起こる。
  (河合隼雄、梅原猛 編著「小学生に授業」安田喜憲 地中の花粉 より)

地球もそうですし、日本もそうだと思います。
自然を「食べつくし」、人口が減少するなかにあっても、「モアイ像」に執着したようにビルを建て続ける。あるいは、原子力発電に執着する。
気がつけば「生き抜くこと」に必要なものが手に入らないという状況に直面する。
しかし、「どこにも逃げていくことができない」。

“ 人間は歴史から教訓を学べない、その事実が最も大切な教訓である ”

イースター島の文明と、同じ歴史をたどらないようにするための教訓だと思います。




                           *


1984年3月11日は「風の谷のナウシカ」の映画封切日です。
2020年3月11日で封切から36年です。

  ナウシカ: 腐海の木々は人間が汚したこの世界を、きれいにするために生まれて来たの
        大地の毒を体に取り込んで、きれいな結晶にしてから、死んで砂になっていくんだわ
        この地下の空洞は、そうしてできたの
        蟲たちは、その森を守っている

  アスベル: だとしたら、ぼくらは滅びるしかなさそうだ
  (宮崎駿 監督「風の谷のナウシカ」より)

どういう形にしろ決着はつくのだと思います。
人間にとってよい方向で決着するのか、それとも悪い方向で決着するのか。
分断を前提にした「パラレル政治」が続くのであれば、人間を当然のように分断する政治が続くのであれば、
人間全体を考えた場合、先の見込みは厳しいように思います。

  わたしたちは今、持続不能に至る道を急ぎ足で歩いている。
  現在の子どもたち、若者たちが生涯を終えるまでのあいだに、世界の環境問題はなんらかの決着を見るだろう。
  問題は、それが自分たちの選んだ快適な方法による決着か、戦争、大量殺戮、飢餓、疫病、社会の崩壊など、
  選ばざる不快な方法による決着かということだけだ。
  (ジャレド・ダイアモンド、楡井浩一 訳「文明崩壊 (下)」第16章 世界は一つの干拓地 より)


宮崎駿氏が「赤毛のアン」のシリーズを途中でやめた頃のエピソードを読むと、
ナウシカに、機関銃を持ったアンの姿が重なる気がします。

  私は思い出そうとしても、宮さんから「もうやめる」と切り出された記憶はありません。
  宮さんがやめるのは、スタッフの皆はなんとなくわかっていたようでした。
  リアルで地味な生活アニメは、もう宮さんのつくりたいものではなくなっていたようです。
  描いていても自分がイライラしてしまうようで、仕事の合間にアンがオートバイに乗ったり、
  機関銃を持っている画とかを描いていました。
  (「熱風」2014年2月 「アルプスの少女ハイジ」とその時代 中島順三 より)

ナウシカというキャラクターのイメージは、ギリシヤの叙事詩オデュッセイアに登場する王女だったり、
今昔物語の虫愛ずる姫君だったりするのでしょうけど、その背後には、赤毛のアンが生きているように感じます。




                          *


2020年3月14日土曜日「中継・安倍首相会見 ~ 新型コロナウイルス対応方針を説明」を見ました。

記者が質問している途中で、NHKの中継が打ち切られました。
野球のナイターを最後まで中継するNHKが、今回のような大事な会見を最後まで中継しない理由がわかりません。

  安倍首相の発言には、言葉を尽くせば意見の異なる相手の心でも動かすことができるという、
  言葉への信頼や敬意が感じられません。
  だから、話せば話すほど「体重が乗っていない言葉」があふれ出るように見えます。
  (朝日新聞 2020年3月14日土曜日 耕論 宰相の「ことば」岡田憲治 より)

「パラレルワールド」からの言葉のように感じます。体重のない、身体のない言葉。

「パラノイアと天才は紙一重」という時代から、「凡庸なパラノイア」という時代へのシフトを感じます。
オルテガの「大衆」とも似ていますが、より深刻な気がします。



                          *


「楽園」について。

ジョージ・シドニー監督「錨(いかり)を上げて」(1945年/アメリカ)を見ます。

  船に残って、船の監視とは気の毒だな。
  ハリウッドに行けないんだぜ、美女の宝庫なのに。
  
というセリフがあります。
1945年のハリウッドは「楽園」だったのだと思います。
その後、場面が何回かかわり、

  法律なんか知るか、俺は歌って踊るぞ

という「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」なセリフがでてきます。
ハリウッドという「楽園」を感じます。男性の視点からという限定つきの「楽園」とは思いますが。
現在の文脈から見ると「死の舞踏」に見えるかもしれません。


本人役で出演しているホセ・イトゥルビに目がいきます。
楽団を指揮し、ピアノを演奏し、ピアノを調律する。
専門化されたピアニストではなく、音楽家イトゥルビを感じます。
Pearlからでているイトゥルビのピアノの演奏に、自由な空気を感じます。



ウディ・アレン監督「さよなら、さよならハリウッド」(2002年/アメリカ)を見ます。
映画のなかの映画監督ヴァルは、フランスでの批評「過去50年で、最高のアメリカ映画」という作品を作ります。

  フランスがあってよかった

というヴァルのセリフにつながります。
「楽園」はハリウッドからフランスへ移ったのかと思います。

  当時もよく病気をデッチ上げてたわ。
  今どき、ペストや酸素アレルギーになる?

というヴァルの元結婚相手のセリフがあります。
この映画のハリウッドでは、そういった感染症やアレルギーは遠い過去の存在のようです。
ただ、2002年のハリウッドは「楽園」ではなさそうです。


エドゥアルド・デルック監督「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」(2017年/フランス)を見ます。
そもそもフランスは「楽園」ではなさそうです。

  夢にまで見た、ポリネシアに行ける。
  タヒチではカネなど要らん。
  魚を釣り、木の実を拾う。
  そして絵を描くんだ。

というゴーギャンのセリフがあります。
ただし、そうはいかなかったことが、映画でえがかれています。
この映画で参照されているゴーギャンの「ノア・ノア」の解説を読みます。

  タヒチ島での生活は彼の絵画的手法をも一段と拡大したかに見える。
  しかし彼が「ノアノア!」と謳(うた)いあげた詩的生活の裏にもやはり深刻な経済上の問題、
  日常の心の片隅をよぎる極めてデリケートな生存への期待、制作上の悩み等が友人ダニエルへの訴え
  という形で吐露されている。
  (ポール・ゴーガン、前川堅市 訳「ノア・ノア タヒチ紀行」訳者による解説より)

映画のゴーギャンのセリフ「そして絵を描くんだ」という闘いが、「楽園」が、結局「楽園」にならなかった理由の一つだと思います。
「楽園」と対決してしまった。しかし、それは避けられなかったことだと思います。
「楽園」とはいったい何か。

  日本で五十近くになって赤ん坊でも生めば大変なことだが、
  楽園ではだいたい女は七人から八人子供を生むから常に人手が余っている。
  日本みたいに老人が知らない間に死んでいたなんていうこともない。
  楽園で子供をそだてることは、そんなに大へんなことではない。
  子供は捨てておいてもそだつ位気候がよいし、食物だってある。労せずして自然が養ってくれるのだ。
  
  老子に「小国寡民(しょうこくかみん)」という言葉があるが、全く人口の少ない小さな国で、
  文明国が水爆をもとうが石油のとりあいをしようが知らん顔をして鳥や虫のように天寿を全うするのが
  幸福というやつであろう。文明社会には心配事が多すぎる。
  (…)
  テレビも新聞もないが毎日の生活は楽しい。(…)子供も若い者も老人には親切だ。特に病人は大切にされる。
  なにも無いのに、なにもかもが備わっているのだ。
  (水木しげる「水木しげるのカランコロン 妖怪・楽園・戦争 右腕の30年」昭和39-49年 楽園にかえる より)

「なにも無いのに、なにもかもが備わっている」それが「楽園」なのだと思います。




                           *


新型コロナウイルスの検査体制の整備が「後手後手」で遅れている状況があって、そういったなかで、つまり、エビデンスがないなかで、
大阪府が新型コロナ対策に成果をあげているかのような話をする人がいて、ひどい話だと感じます。

例えば、2020年3月7日土曜日 朝日新聞 大阪北摂コーナーの記事によると、大阪府茨木市のイオンで試食や試飲を担当していた女性が、
新型コロナウイルスに感染していたことが確認される、しかし、「客への感染の可能性は低い」として、その後もイオンは休まず営業しています。
それを認めている保健所は、大阪府です。(2020年3月19日木曜日時点)
イオンスタイル茨木店は、JRの線路をはさんで、立命館大学いばらきキャンパスの前にある店舗ですけど、本当に大丈夫?と感じます。
結局、エビデンスがない、つまり現状に誠実に向き合うことが欠落している段階では、成果はわからないということだと思います。



                          *

時間感覚について。

  ロストックの動物学研究所では、それまですでに18年間絶食しているダニが生きたまま保存されていた。
  ダニはわれわれ人間には不可能な18年という歳月を待つことができる。
  われわれ人間の時間は、瞬間、つまり、その間に世界がなんの変化も示さないような最短の時間の断片がつらなったものである。
  一瞬が過ぎゆく間、世界は静止している。
  人間の一瞬は18分の1秒である。(…)瞬間の長さは動物の種類によって異なるが、ダニにどんな数値を
  当てようと、まったく変化のない環世界に18年間耐えるという能力は、とうていありうるものとは思われない。
  (ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、日高敏隆・羽田節子 訳「生物から見た世界」序章 環境と環世界 より)

ダニは絶食して18年待てますが、人間は待てません。
18年間、静止している世界でダニは待ち続けます。

  ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ
  生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、
  そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠(ねずみ)どもを
  呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。
  (アルベール・カミュ、宮崎嶺雄 訳「ペスト」5 より)

ダニは18年待つことができます。
ペストも「しんぼう強く待ち続け」ることができる何かなのだと思います。
潜伏期間が比較的長いとされる新型コロナウイルスにも重なるように思います。
冷静に待つことができるハンターの雰囲気を感じます。

                          *

  しかし、歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死をもって罰せられるという時が、
  必ず来るものである。教師もそれはよく知っている。
  そして問題は、いかなる褒賞(ほうしょう)あるいは懲罰がその推論を待ち受けているかを知ることではない。
  問題は、二たす二が果して四になるか否(いな)かを知ることである。
  (アルベール・カミュ、宮崎嶺雄 訳「ペスト」2 より)

歴史において「二たす二は四」という事実を言う者が罰せられることは、残念ながらよくあることです。

一方で、パヌルー神父の説教を思い出します。

  ペストのなかに離れ島はないことを、しっかりと心に言い聞かせておかねばならぬ。
  まことに、中間というものは存在しない。公憤に値するような事実も許容しなければならない。
  (…)寝台から半ば身を乗り出して死んでいる姿が発見された(…)彼のカードにはこう記された ― 「疑わしき症例」
  (アルベール・カミュ、宮崎嶺雄 訳「ペスト」4 より)  

「疑わしき症例」という「中間」が存在することも事実なのだと思います。
つまり、現時点では「わからない」ということも存在する。そういった状況であればこそ「わかる」ようにしていくことの重要性を思います。

                          *

新型コロナウイルス感染の連鎖を断つ成功例として日本の「和歌山モデル」をワシントン・ポスト紙が報じたという記事を、
ヤフーニュースの国際欄で読みました。
「和歌山モデル」は防御策として “ 積極的な検査と接触者の追跡 ” の重要性を明示していると。
感染の可能性がある人の名簿があるわけでもない、全体像も「わからない」なかでのスタートだということ。
全体像が「わかる」ことで漠然とした不安が明確化し、できる対策も明確化するということだと思います。

  不安神経症とは、船長が「ドーン」という不気味な音を聞いた状態である。
  それは何か解らない。
  ひょっとしたら船の故障か、あるいは原住民間の争いか、大きい荷物を急に乗せたのか、
  あるいはもっと恐ろしい火山の爆発か、不明なのである。
  (河合隼雄「コンプレックス」第3章 コンプレックスの現象 より)

「わからない」を「わかる」ようにしていくことで、何かが見えてくると思います。




                          *


2020年3月27日の金曜ロードショーは「魔女の宅急便」でした。
昨年が公開30年ですね。
副音声・アイパートナーの水谷優子さんの声で見ました、すごくいいです。
水谷さんの声をとおして見ると、動く絵本という感じで、アニメーションの上下の動きが静かに感じられるようでした。
水谷さんが「アッパレ、アッパレ」言っていたのが、ついこの間のように思います。2016年に亡くなられたというのがウソのようです。
山本正之さんと水谷優子さんのデュエット曲「急げタクシー」は楽しい曲です。




                          *


青空文庫で、関根秀雄訳のモンテーニュ「エセー」が、2020年2月から、
全三巻を自由に読める、自由に言葉を検索できるようになり、すばらしいことだと思います。
“ 図書館は民主主義の柱 ”と言われますが、青空文庫もそうだと思います。

  おりあしく [1585年] 六月ころからボルドーにはペストが発生し、彼は市にはもどらないまま、
  市外で次期市長のマティニョンと引き継ぎをせざるをえなかった。
  こののち、ペストはボルドー市を荒廃させ、一万人以上の市民がそれに倒れたといわれる。
  モンテーニュも、自邸近くに及んできたペストのため、家族ぐるみ家をあけて避難しなければならなかった。
  (世界の名著24「モンテーニュ」荒木昭太郎 モンテーニュの人と思想 より)

ペストから避難するモンテーニュを待っていたのは「待ってはくれない」人たちでした。

  放浪の一家ともなれば、友達にも・身内の者にさえ・こわがられ、どこへいっても忌避された。
  一行のうちの一人の指の先が痛み出したというだけで、さっそく宿りを移さなければならなかった。
  あらゆる病気がペストと思われ、人はそれが何の病かきまるまで待ってはくれないのだ。
  (モンテーニュ、関根秀雄 訳「随想録 第三巻」第十二章 人相について より)

「あらゆる病気がペストと思われ」という、人々の不安の切実さと、避難するモンテーニュの切実さが、同時に感じられます。

  ある日ヨギの家へ旅人がきていった。
  そりゃあ「争いのつぼ」ちゅうて
  そのつぼをもつと幸福が一方に片よりすぎるために
  幸福をとりもどそうとして、争いがはじまるのじゃ。
  それで昔から「争いのつぼ」というのじゃ。
  (水木しげる「縄文少年ヨギ」争いのつぼ より)

日本でおこる可能性が高い二次災害として「利権のつぼ」が考えられます。
「幸福が一方に片よりすぎる」利権にこだわれば、争いを招致することになると思います。
「老子」第八十一章に、聖人之道、為而不争(聖人の道は、何かを為しても争いを招くことがない)とあります。
聖人ならざる人間が行う政治とはいえ、泥をかぶるのが大好きなドジョウ政治でいいのか、という問題を感じます。
「泥をかぶる」「責任は私がとる」と、言葉だけは勇ましい。
それから、武漢(ウーハン)とか東莞(トンガン)とかは、日本人もたくさん住んでいる世界の下請け工場というところがあると思います。
新型コロナウイルスについては、「まぁ、ここらへんから始まってますよ」というケルト的な見方をした方がいいように思います。
利益がでていないわけではない日本の工場を閉鎖し「より安く作れる」海外の工場へシフトした経営者の判断が、今、問われます。



                          *



2020年3月30日のEテレ「銀河英雄伝説 放送開始スペシャル」を見ました。
金髪の人が、リアル版フォーク准将みたいで驚きました。それに加えて、「父はアニソン界の有名ギタリスト」とか、
血統をほこるタイプはラインハルトが最も嫌悪する門閥貴族にマインドが近いのでは、とも思いました。
でも、これが今のNHKの実態(マインド)に近いのかもしれません。
よくわかりました、銀英伝の放送途中から岩田明子記者の解説がはじまっても、もう驚きませんよ。
驚きはしませんが、たとえ、そういったことをしても驚かれないNHKというので、本当にいいのかな?とは思います。



                          *


2020年3月の100分de名著、アーサー・C・クラークスペシャルの最終回「楽園の泉」で、
“ 技術者の勝利だけで終わる話ではなくて土地と一つになって新しい光景になる ”
「科学と芸術と哲学」のバランス、という作家の瀬名秀明さんのお話がありました。

エンジニアのウォード・マーストンが思い浮かびました。

例えば、スクリャービンを驚嘆させたというレヴィーンのピアノ演奏。
DANTE版と、マーストンが修復したNAXOS版のCDを聴き比べると、ノイズや音のたわみを、マーストンが繊細に修復していると感じます。

マーストンが立ち上げたMARSTONレーベルのホフマンのピアノ演奏を聴くと、
「科学と芸術と哲学」が融合した復刻という、誰が勝利したのかという次元ではない、
「新しい光景」を感じさせるCDで、すばらしいなと思います。
1930年代前後の自由なピアノ演奏というのは、こういう感じだったのかなと想像の奥行きが広がる気がします。




                         *


               斯人也、而有斯疾也(このひとにして、このやまいあるや)
              (「論語」雍也第六 より)

ウイルスは権威に平伏しません、宗教も道徳も関係ありません。「論語」にもあるように、どれだけ徳行にすぐれていても関係ありません。
このようにすぐれた人が、このような病におかされてしまうのか・・・となります。
前提として、ナイチンゲールが言ったように「宗教者の愛よりも、衛生環境」が重要です。
ウイルスが通過する「布マスク」ではありません。


上記画像は、2020年4月3日金曜日「羽鳥慎一モーニングショー」からです。
布マスクの使用は(…)「いかなる状況においても勧めない」の出典を確認します。

  Advice on the use of masks in the community, during home care, and in health care settings in the context of COVID-19
  Interim guidance 19 March 2020
  (COVID-19に関連して、地域社会、在宅ケア、健康管理の現場でのマスクの使用に関する助言  中間ガイダンス 2020年3月19日)

によるようです。WHOのホームページから702.8kBでダウンロードできます。
医療関係者に対する助言ですが、市中感染率が上がっていると考えられる現状では、私たちにも関係していると読むほうがいいと思います。
Background (背景)、General advice(一般的な助言)と項目が続き、最後の Mask management(マスク管理)のところの最後の行に、

   Cloth (e.g. cotton or gauze) masks are not recommended under any circumstances.
  (布製(綿やガーゼなど)のマスクは、いかなる状況においてもお勧めできません。)

と、あります。
「地域社会、在宅ケア、健康管理の現場でのマスクの使用」に関して、WHOが布マスクを「いかなる状況においても」勧めていないことは確かです。


※ 中間ガイダンスが、2020年4月6日付で更新されています。

  Advice on the use of masks in the context of COVID-19
  Interim guidance 6 April 2020

というタイトルで、WHOのホームページから279.1kBでダウンロードできます。
前回が2ページだったのに対して、今回は5ページでした。
こわいと感じたのは、この4月6日更新のガイダンスを参照しているように書きつつ、布マスクに利点があるかのように報じているメディアがあることです。
むしろ、Type of Mask(マスクの種類)のところで、

  One study that evaluated the use of cloth masks in a health care facility found that
  health care workers using cotton cloth masks were at increased risk of infection compared with those who wore medical masks.
  Therefore, cotton cloth masks are not considered appropriate for health care workers.
  (医療施設での布製マスクの使用を評価した、ある研究では、
   綿布製マスクを使用している医療従事者は、医療用マスクを着用している人と比較して感染リスクが高いことが判明しました。
   したがって、綿布マスクは、医療従事者に適さないと考えられています。)

と、布マスクの危険性を示していました。
DeepL翻訳とか、すばらしい翻訳サイトがあるので、英語が苦手でも命にかかわる情報は確認したほうがいいと感じます。

命にかかわる状況にあっても「ポスト・コロナ」の利権を画策する、旅行券を配ろうとするとか、というのは、
銀河英雄伝説でいうと「ポスト・ラインハルト」を画策する、ブラウンシュヴァイク公とリッテンハイム侯のようです。
ラインハルトに勝てる保障はどこにもないのに・・・夕食の用意ができていないのに、明日の朝食について論じている門閥貴族のようです。
全国にさきがけて「保健所つぶし」をした政党の大阪府知事が「頑張っている」ように見えることへの称賛とか、ひどい状況を感じます。


※ 布マスクについて公衆衛生学の専門家が解説、わかりやすいです。

  「(…)布マスクも同じように、洗えば洗うほど網目が広がっていくので、
   どちらも [布マスクも不織布(ふしょくふ)マスクも] 新品より効果は低下します」

   再利用した、布マスクと不織布マスクがあったら、どちらを着けますか?
  
  「それしかないのでしたら、個人的には不織布マスクを洗ったほうを着けますが、
   感染リスクが少しでもある場所へは絶対に行きません」

  (「週刊プレイボーイ」no.17 2020年4月13日発売 『マスクの品格』の著者にして公衆衛生学の専門家が解説! より)

放送局では、民放よりNHKを信用するというお年寄りがいます。
そういったお年寄りは、国から送られてきた布マスクを「安全なマスク」と思い込み、その布マスクで3密に入ってしまうかもしれません。
政府は「布マスク2枚」をどういう気持ちで配るのか・・・オーベルシュタインのように「猫には猫のエサを、犬には犬のエサを」という
ことなのでしょうか・・・命にかかわることだと思いますが。


※ 緊急事態宣言メモ

   2020年3月24日(火): 東京オリンピック開催延期を発表
   2020年4月07日(火): 7都府県に「緊急事態宣言」
   2020年4月16日(木):「緊急事態宣言」を全国に拡大、13都道府県を「特定警戒」
   2020年4月21日(火):「緊急事態宣言」から2週間、
               岡田晴恵教授によると現状は “ 検査数をしぼっているのでオーバーシュートを検知できない ” 状態にある。
               つまり、ニューヨークのように感染爆発が起こっても「わからない」状態にあるということ。

検査ができていない状態であればこそ、死者について「疑わしき症例」をカウントできているのか、ということになると思いますが、
「わからない」状態なのだと思います。

   ポジティビズムは、オプティミズム(楽観主義)とは異なります。
   たとえば、観客として試合を見ながら「自分のチームが勝ちそうだな」と考えるのが楽観主義です。
   一方、ポジティビズムは自分が試合に参加し「うまくプレイできれば試合に勝てるぞ」と考えることです。
   (緊急対談 パンデミックが変える世界 ~海外の知性が語る展望~ ジャック・アタリ より)

どういった考え方がベストかはわかりませんが、今、「楽観主義」にとびつくのはまずい、ということは言えると思います。


   2020年5月04日(月):「緊急事態宣言」の実施期間を5月31日まで延長、
                5月14日をめどに専門家に分析をしてもらい、可能だと判断すれば5月31日を待たずに宣言を解除する

5/4月曜日配信の時事通信社の記事によると、大阪では新型コロナの検査が「最長10日待ち」とのこと。
例えば、はやく検査をし、はやく検査を確定させて、錠剤のアビガンを飲めば命が助かる、ということも言われています。
はやく検査をしようとする「和歌山モデル」に、なぜ大阪は学ばないのかと感じます。
大阪の「わからない」ところは、陽性率が低い(7%未満)つまり「十分に検査ができている」ように見えるのに、現場の医師からは
「保健所は必要な検査をほとんど受け付けていない」という声があることだと思います。


   2020年5月14日(木):「緊急事態宣言」を39県で解除。
               北海道、東京、千葉、埼玉、神奈川、大阪、兵庫、京都の8都道府県では継続。

  公私ともに順風満帆な吉村氏。だが、橋下氏による「維新改革」がコロナ対策にもたらした“弊害”を
  決して認めようとしない。その最たる例が、0八年に府知事となった橋下氏が推進した病院の統廃合だ。
  (…)厚労省「医療施設調査」によれば人口十万人に対する感染症病床数は、「橋下改革」前の0七年では0.九と
  全国ワースト五位だったが、今ではワースト二位に順位を下げた(一八年調査)。
  さらに保健所の統合も進め、総務省「地方公共団体定員管理調査」によると、一九年の大阪府の保健所職員数は
  五百六人。0七年は七百四十八人で、三割以上減らしたことになる。
  (「週刊文春」 5月21日号 特大ワイド「コロナの主役と悪役」より)

大阪の問題点が簡潔にまとまっている記事だと思います。
“ 悪夢の太田府政 ”を「改革」し続ける後継者である吉村氏、その実態がコロナで可視化されていると思います。
「“弊害”を決して認めようとしない」という姿勢はこわいです。
大阪に現われた「アミバ」のようにも見えてきます。
「大阪モデル」もいいですが他府県との「広域連携」も大事にしてほしいです。


   2020年5月21日(木):「緊急事態宣言」を大阪、京都、兵庫で解除。
               北海道、東京、千葉、埼玉、神奈川の5都道県で継続。


「大阪モデル」「京都モデル」「兵庫モデル」地域の特性があるのはわかりますが、
協力していくことも頑張ってもらいたいです。

例えば、地域差というと、水の問題を感じます。
京都の人は「大阪の人間は、京都の下水を飲んでくらしている」と言います。
淀川水系が念頭にあると思います。

否応なく存在する地域差があるからこそ、公共的に協力する必要がある。

電車のコロナ対策のアナウンスで“ 大声での会話を控える ”がありました。
飛沫感染対策だと思います。
ただ、会社では“ 声が小さいぞ!元気がないぞ!イデオロギー ”が根強いと感じます。
例えば、工場とか、機械の音がうるさい現場では「大声」は必要だと思いますが、
飲食店やオフィスで、そういった「元気イデオロギー」は、どうなのかと感じます。

自分の「元気」をアピールすることが、かえって感染を広げるというコロナの特性を考えます。

日本のコロナの本当の死者数はどれくらいなのだろうと思います。
検査をしぼっている状態で、死者のカウントだけは正確に検査できている、というのは信じ難いことです。


   2020年5月25日(月):「緊急事態宣言」を北海道、東京、千葉、埼玉、神奈川の5都道県で解除。
                47都道府県すべてで「緊急事態宣言」は解除される。


  人間はどのような民族であれ、自分を超えた超越的存在について考え、それに対する「おそれ」の感情を持って生きてきた。
  ところが、ヨーロッパの近代においては、人間の理性の力が示され、それに頼ることによって、実に多くのことが
  可能であることがわかってきた。天然痘にかからぬようにまじないをしたり、神に祈ったりするよりも、種痘をするほうが
  よほど有効であることがわかった。

  人間の理性によって、この世のすべてのことはうまくやれると思いかけたときに、困ったことが起った。
  人間のノイローゼは薬でも注射でも治せなかった。

  そんなとき、20世紀の初めに、周知のようにフロイトが出てきて、人間は自分の心の中心が自我であり、
  理性的な自我によってすべてのことが律せられると思うのは誤りで、自我は「無意識」という、
  自我が簡単に支配できない存在におびやかされている。その極端な場合がノイローゼなのだ、と言ったのである。

  このため、人間はノイローゼを克服するためには、自我だけを大切にせずに、自我と無意識との間の対話が必要なのだ、
  それによってこそノイローゼ現象は治癒することができる、と彼は主張した。
  (河合隼雄「ココロの止まり木」ある類似性 より)

「有効」なことだけ行えば「すべて」がうまくいく、は「選択と集中」神話の世界だと思います。
これで「すべて」がうまくいくと思ったときに、支配できたと思ったときに「ノイローゼ」が起こる。
人間の中心には「無意識」が存在し、簡単に支配できるものではない。

  このごろは、自分に「有用な」知識をインターネットで引き出せるので、本を端から端まで読むような
  面倒なことはしない、という人があるようだが、それは間違いだ。
  本は端から端まで読むと、単なる「知識」の獲得などということをこえて、著者の人間性が感じられてくるところがいいのだ。
  どこかで出合いがあったり、対決があったり、同感したり、ともかく、多彩な経験をする。
  (河合隼雄「河合隼雄の読書人生 深層意識への道」あとがき より)

どれだけ好感をもつ著者の本でも「出合いがあったり、対決があったり、同感したり」して「すべて」がうまくいくことはありえない。
「有用な」知識、だけでなく「無用な」対話も考えていくことで「すべて」について何かわかるかもしれません。


※ 「緊急事態宣言」が解除された6月に、布マスクが届きました。

布マスクには「みなさまへ」とあり、
「現下の情勢を踏まえ、一部の地域に新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言が出されました。」とあります。
ジョーク・グッズとしての布マスクということでしょうか。どうなっているのかと思います。


   春暁  孟浩然(無職)

   春眠不覚暁 (しゅんみん あかつきをおぼえず)
   処処聞啼鳥 (しょしょ ていちょうをきく)
   夜来風雨声 (やらい ふううのこえ)
   花落知多少 (はなおつること しるたしょうぞ)

   訳: サンデー毎日の春の朝、あちこちから鳥の声が聞こえる。
      ゆうべは風雨の音がしていたようだ。
      ステイ・ホームで過ごしているので、外の様子がどうなっているのかわからない。


5月には、遅滞なく固定資産税の納付書が届き、その後しばらくして、ゆっくりと特別定額給付金の申請書が届く。
「緊急事態宣言」が解除された6月になっても、給付金は振込まれる気配がないなか、布マスクが送られてくる。
どうなっているのかわからない。





                          *



高畑勲監督「火垂るの墓」の、西宮のおばちゃんは、「お国のため」と言いながら「お国のため」に焼け出された清太と節子をイジメぬく、
影の主役だと感じます。西宮のおばちゃんは、軍人の子ども2人を「疫病神(やくびょうがみ)」と思うようになります。
セーフティーネットがない社会、「お国のため」の社会がえがかれている。
「お国のため」の社会には、「国民のため」のセーフティーネットは必要ありません。

民主主義の社会では、政府や地方自治体は「国のため」に存在しているのではなく「国民のため」に存在しています。
日本国憲法の第二十五条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、
社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
「公衆衛生」もないがしろにしている、例えば、保健所を削減してきた最近の大阪府について考えさせられます。
「疫病(えきびょう)」は、洪水がおこり、下水があふれた後でもおこります。台風は今年もやってきます。




                            *


2020年4月18日深夜、100分deメディア論の再放送を見ました。

インターネットが出はじめの頃には、
「バーチャル・リアリティ」(仮想現実)ということが言われていたのと同時に、
「オーギュメント・リアリティ」(リアリティを強める)ということが言われていたように思います。
リップマンの言う「ステレオタイプ」をオーギュメントする、強める装置、に近い意味でインターネットが言われていた記憶もあるのですけど、
どうだったかな、と思いました。


  村上  ただ、紫式部の場合、非常に意識的だという感じがするのですが、そうでもないですか?
      物語のつくり方が、構造が、非常に複合的な感じがする。
      ただたんに空気のように、物語がそこに存在したというだけではすまないような気がするんですけれど……。

  河合  そうですね。物語はやはりつくらなければいけませんから、
      つくるということは、そこに個人というのが存在しないとできないのですね。

  (河合隼雄、村上春樹「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」第二夜 無意識を掘る“からだ”と“こころ”より)

「空気」のようにそこに存在している・・・と見せかけるような「物語」があって、それは「ステレオタイプ」ともつながりますが、
結局、人間は、そういった「物語」から逃げられないと思います。
しかし、自前で「物語」をつくるのは非常に難しい、しかも、事実は断片としてあらわれてくる。
何か、少しでもましな「物語」に触れておくようにすることは大事だと思います。


  「剃刀(かみそり)の刃を持っていないかと思ってね」彼が言った。
  「一枚もない!」ウィンストンは疚(やま)しさから早口になって答えた。「そこらじゅう探し回ったんだが。
   どうやら手持ちはもうなくなった」

   誰もが剃刀の刃の持ち合わせがないかを尋ね回っていた。実のところ、ウィンストンは
   未使用の刃を二枚、密(ひそ)かに隠し持っている。この数ヵ月、剃刀の刃の不足が続いていた。
  (…)手に入る可能性があるとすれば、“自由”市場に出向いて、多少ともこっそりあさるしかなかった。
   (ジョージ・オーウェル、高橋和久 訳「一九八四年」第一部 5 より)

新型コロナウイルスの世界に住む人間にとって、ここでの「剃刀」は「マスク」に感じられます。
手に入る可能性があるとすれば、ネットでこっそりあさるしかない。

  「覚えているかね?」オブライエンは話を続けた、「君は日記に書いた ― 『自由とは二足す二が四である
   と言える自由である』と」
  「はい」ウィンストンは言った。
   オブライエンは手の甲をウィンストンの方に向けながら、左手を上げてみせた。
   親指を折り、他の指四本は伸ばしている。
  「わたしは指を何本出しているかね、ウィンストン?」
  「四本です」
  「もし党が四本ではなく五本だと言ったとしたら ― さて何本だ?」
   (ジョージ・オーウェル、高橋和久 訳「一九八四年」第三部 2 より)

オルテガ、カミュ、加藤周一、オーウェル、が共通して言っていることは、
「2+2=5」という人間を信用するな、ということだと思います。少なくとも、そういった「気宇壮大」な人間には、
医療インフラをはじめ、命にかかわる公共的な仕事を任せてはいけないのだと思います。
「府+市=不死鳥」というような話をする人が現実に存在します。




                          *


アダム・シャンクマン監督「HAIRSPRAY(ヘアスプレー)」を見て、今、印象的だったことになります。

グッド・モーニング・ボルチモアからはじまる、楽しい雰囲気にあふれているミュージカル映画です。
ラストのシーン、ユー・キャント・ストップ・ザ・ビートの歌の間でコーニー・コリンズが、

  This is the future

と、言います。

映画館での字幕は「これが現実だ」で、DVDでの字幕は「これが未来だ」でした。

以前は「これが現実だ」の訳がピッタリくると感じたのですが、新型コロナウイルスが蔓延し、市中感染が拡大している、
外に出ることが、すなわち、感染リスク、そして3密を避けると言われる現在からは、この歌って踊って人と人とが密着する映画は「未来」と感じました。
あまりピッタリこないと感じた「これが未来だ」の訳が、今、ピッタリくるように感じるのはコロナの影響なのだと思います。




                          *


サンテグジュペリ「星の王子さま(Le Petit Prince)」というと、宮崎あおい主演のミュージカル(2005年8月)が印象的です。

星から来て星に帰っていく王子さまが、かぐや姫のように感じました。
宮崎あおい主演のミュージカルで「星の王子さま」が身近に感じられました。

  王子さまは知らなかったけれど、王様たちにとって世界はごく単純なところであり、
  人はすべて臣下なのだ。(…)王様は口ごもったが、少し気分を害したようだった。というのも、
  王様にとって大事なのはまずもって自分の権威が尊重されることだったからだ。
   (サンテグジュペリ、池澤夏樹 訳「星の王子さま」より)

高畑勲監督「かぐや姫の物語」の御門と、王様とを、重ねてみたくなります。
ただ、王様は、ナチス占領下のヴィシー・フランスのペタン元帥を揶揄したもの、という話もありますし、
重なるところと、重ならないところがあるのだと思います。
王様にとって大事なのは「権威」だということ。

  「肝心なことは目では見えない」と王子さまは忘れないために繰り返した。
  「きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ」
  「ぼくがバラのために費やした時間の分だけ、バラは……」と王子さまは忘れないために繰り返した。
  「人間たちはこういう真理を忘れてる」とキツネは言った。
  「でもきみは忘れちゃいけない。飼い慣らしたものには、いつだって、きみは責任がある。
   きみは、きみのバラに責任がある……」
  「ぼくは、ぼくのバラに責任がある……」と王子さまは忘れないために繰り返した。
   (サンテグジュペリ、池澤夏樹 訳「星の王子さま」より)

“ 門前の小僧習わぬ経を読む ”と言います、その「費やした時間」が大事になると思います。




                          *


スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、三浦みどり 訳「戦争は女の顔をしていない」から、歴史について。


  私はいつも信じていました……スターリンを……共産党員たちを……自分も党員でした。
  共産主義を信じていた……そのためにこそ生きていた、そのためにこそ生き延びたんです。
  フルシチョフが第二十回党大会で「スターリンのいくつもの誤り」を報告したあと、
  私は病気になって寝込んでしまいました。
  それが真実だと思えなかったのです。恐ろしい真実。
  戦争中私自身叫んでいました。「祖国のために!」「スターリンのために!」と。
  誰に強制されたわけでもなく……私は信じていた……それが生きているということだった……
  (アレクシエーヴィチ、三浦みどり 訳「戦争は女の顔をしていない」ちっぽけな人生と大きな理念について より)

「私」が信じる「真実」があり、それを信じることが「私」にとって「生きている」ということだった。

   検閲官との会話より ―
  「たしかに我々が勝利するのは並大抵のことではなかった。
   しかし、その中でも英雄的な手本を探そうとするべきだ。そういものは何百とある。
   ところがあなたは戦争の汚さばかりを見せようとしている。何をねらっているんです?
   真実が現実にあるものだと思ってるんですか?街に転がっているものだと?
   俗世のものだと?そんなものではない。
   真実というのは我々が憧れているものだ。こうでありたいと願うものなのだ」
  (アレクシエーヴィチ、三浦みどり 訳「戦争は女の顔をしていない」人間は戦争よりずっと大きい より)

「検閲官」が信じている「真実」があります。

  わたしは歴史を教えています。年老いた女教師。わたしが憶えているだけでも、歴史は三回書き換えられました。
  わたしは三つの異なる歴史の教科書で教えてきたのです。
  (アレクシエーヴィチ、三浦みどり 訳「戦争は女の顔をしていない」人間は戦争よりずっと大きい より)  

「検閲官」によって「真実」は書き換えられ「歴史」が生まれる。
それを「教師」が教え「私」は信じます。
しかし、その「歴史」は、果たして歴史と言えるものなのか・・・
「歴史」の歴史が存在するようです。

  戦争を思い出す時も、何かそこに出来事があったというよりは、人生の流れのなかのひとつの時期のように思い出す。
  いくどとなく気づいたのだが、彼女たちと話していると、小さなことが大きなことに勝っていて、
  時にそれは歴史全体より勝ることもあった。
  (アレクシエーヴィチ、三浦みどり 訳「戦争は女の顔をしていない」兵隊であることが求められたけれど…… より)  

「人生の流れ」のなかの「歴史」という視点、「小さなこと」の重要性。
ここで、スペインの哲学者オルテガを参照したいと思います。

  私は、絶対的な歴史決定論を信じない。
  それどころか、すべての生はしたがって歴史の生もまた、純粋な瞬間の連続からなりたっているものであり、
  それぞれの瞬間は、相対的に見て、それは以前の瞬間によって決定されるものではないと考える。
  そこで、じっさいの生は、一瞬ごとにためらい、同じ場所で足踏みし、
  いくつもの可能性のなかのどれに決定すべきか迷っている。
  この形而上的ためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与えるのである。
  (オルテガ、寺田和夫 訳「大衆の反逆」第9章 原始性と技術 より)

一瞬ごとの、ためらいの歴史、という視点。
歴史は、過去から生じる単純な決定論ではないということ。
決定論で語られる歴史、必然の歴史の実体は、例えば、権力をもつものの広告、という可能性を考えないといけないと思います。
  
  アインシュタインの物理学は、むかしは無視された重要性がないと思われたので計算に入らなかった
  極小の差異に注意を向けることからできあがっている。
  結局、昨日の世界では最小単位であった原子が、今日では一つの太陽系となるほどにまでふくれあがるにいたった。
  (オルテガ、寺田和夫 訳「大衆の反逆」第4章 生の増大 より)

「極小の差異」に注意を向けるということ。
これは司馬遼太郎さんとも通じると思います。

  歴史にはたくさんの資料があります。とくに近世にあってはそうです。
  たくさんの資料や人物のなかから、百に対し一を書かなければならない。
  何が百を負うに足るほどの一であるかを発見するのが、歴史家の仕事です。
  (司馬遼太郎、岡潔「萌え騰るもの(もえあがるもの)」より 司馬遼太郎さんのお話)  

「百を負うに足るほどの一」という「小さなこと」「一瞬」あるいは「極小の差異」を発見することが、歴史を語るうえで重要なのだと思います。




                          *



2020年8月15日「村上RADIOサマースペシャル」を聴きました。
よかったです。

   僕の好きな言葉に、
   「愛は消えても、親切は残る」というのがあります。
   作家のカート・ヴォネガットの言葉です。
   含蓄のある言葉ですよね、「愛は消えても、親切は残る」。

   僕の大好きな、亡くなった河合隼雄先生は、
   「男女間のロマンティック・ラブなんて、そんなもん、すぐに消えるんですわ」
   と、あっさりおっしゃっていました。
   でも愛が消えた後でも、親切心は残ります。
   そしてその親切心の中から、また新しい種類の愛が芽生えてくることもあります。
   そういう再生って、考えてみたら素敵ですよね。

という、村上春樹さんのラジオでのお話にあった河合隼雄先生のお話は、

  河合 そうです。西洋の場合は、どうしてもロマンチック・ラブというのを下敷きにしていますね。
     ロマンチック・ラブというのは長続きしないんです。

  (河合隼雄、村上春樹「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」第一夜「物語」で人間はなにを癒すのか より)

からだと思います。
村上春樹さんが楽しそうに河合先生のお話をされるのを聴いて、楽しい気持ちになりました。

「親切」はヴォネガットの言葉でもあり、夏目漱石「硝子戸の中」にでてくる「親切」とも感じました。

   私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心の中(うち)では大変嬉しかった。
   そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。
   不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。
   覚えているのはただその人の親切だけである。

   (夏目漱石「硝子戸の中」二十九 より)

「覚えているのはただその人の親切だけである」という「心の中(うち)」にまで届く「親切」というものがある。
例えば、そういった「親切」によって、これまであった憎しみも、判断の構図がかわって、許せるようになるのかもしれません。


  村上 しかし、現実問題として、言語化できない一線を持っておられることで、
     河合先生は多くの人を治癒しているのですね。

  河合 それはそうです。しかし、それはぼくの場合は経験則みたいなものが多いですね。
     だから、治癒と言っても普通と逆みたいなところがあって、自分が道徳的な律を持って
     がんばっているというのではなくて、ぼくの目の前におられる人が、本質的に意味のあることを
     考えておられるうちに、お互いの間でだんだんだんだん線ができてくるというところがあります。
     あと、ぼくの場合は、一人の人間のことに必死になっていたら、世界のことを考えざるをえなくなって
     くるんですね。結局、深く病んでいる人は世界の病いを病んでいるんですね。
     それでぼくはなんとなく社会に発言するようになってきたんですよ。
     だけどぼくの発言のベースはみんな個人ですよ。

  (河合隼雄、村上春樹「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」第二夜 無意識を掘る“からだ”と“こころ”より)

社会に発言するようになっても、ベースは個人にあるということ。

   僕は小説家ですから基本的に、社会的制度よりは心の在り方みたいなものを大事にします。
   燃えるときには燃える、良くも悪くもそれが人生です。
   思い出を大切にしてください。

という、村上春樹さんのラジオでのお話に、河合先生と共通するものを感じました。
ただ、「親切」に限らず「心の在り方」を大事にするというのは、そもそも「普通と逆」とされてしまうかもしれないと思いました。


  河合 (…)無為は、要するに人工的にしないことだと言いましたね。
     ところが今、片一方は、それをすることばっかりしているわけです。
     コンピュータにしろ何にしろ、全部そうですね。だから僕がよく言っているけど、
     オペレートすることが、ものすごく常態的に動いているわけですね。
     ところが下手すると、人間が人間にオペレートする、人が人をどう動かすかとかになる。
     それは一番危険なことで、老荘的で、道教的な考え方というのは、人間が絶対ベースに持っていないと、
     というのが僕の考え方なんです。

  (福永光司、[聞き手] 河合隼雄「飲食男女 ― 老荘思想入門」今こそ求められる老荘的発想 より)

社会制度によって、人間がオペレートすることによって、しつけることによって、生じる病いというのが確かに存在します。




                           *



     のぞみはありませんが
     ひかりはあります     新幹線の駅員さん

     千葉・本妙寺の掲示板にあった言葉(江田智昭著『お寺の掲示板』所収)。
     臨床心理家・河合隼雄が残したジョークから引かれた文言。
     河合が新幹線の切符を買おうとしたら、駅員にこう言われた。(…)          
     希望をなくしても仏様の光はずっと人を照らしている。
    (鷲田清一 折々のことば 2020・9・13 より)
    
“ 希望がない ”とすれば、河合先生からすると、相当なことだと思います。

   精神科医の中井久夫の言葉に、病に対する「最大の処方は、希望である」という、私の好きな言葉がある。
  確かに、何のかのと言うよりは、揺るぎのない希望をもって人に接するのが、われわれ心理療法家の最大の役割ではないかと思う。
   とは言っても、「希望つぶし」の名人のような方々とお会いすることが多いので、こちらも大変である。
  そんなときに、私は自分がどれほど多くの、希望に至る心の回路をもっているのかが勝負どころかと
  思ったりする。ひとつやふたつつぶされても、大丈夫なのだ。
  (河合隼雄「ココロの止まり木」起こり得ないこと より)

シェークスピア「ペリクリーズ」のように「起こり得ないこと」が、よくも悪くも、つぎつぎに起こることが
“ 希望 ”なのだと思います。そして「希望に至る心の回路」という「回路」をもつということ。
「通路」と言ってもいいかもしれません。それは、必ず「ある」ということ。


  クライエントの「表現」というものは、治療者の在り方とのかかわりで出てくるものであることを
  よく知っている必要がある。「死にたい」とよく言っていた人が、そのようなところを抜け出た後で、
  「死にたい、という言葉でしか生きたい気持ちを伝えようがなかった」と言われたことがあった。
  生きねばならぬし、生きたいと思う。しかし、あまりにも苦しい。
  その苦しみをなかなかわかってくれない。とすると、「死にたい」とでも言うより方法はなかったのだ。
  (河合隼雄「心理療法序説」第九章 心理療法の諸問題 より)

「治療者の在り方とのかかわり」という、今、私は、どういう「在り方」の中にいるのか、言葉は、そのかかわりの
なかからでてくる「方法」でもあるということ。
河合先生の「揺るぎのない希望をもって人に接する」という言葉は「在り方」の言葉だと感じます。




                          *



ベッリーニのオペラ「ノルマ」について。

大阪にシンフォニアというクラシック専門店があって、そこでのCDのデモ演奏で、
リストの「ノルマの回想」を聞いたのが、私の「ノルマ」の聞き始めです。
88鍵のオーケストラという感じの演奏で、ピアノを誰が演奏していたのか覚えていませんが、
いい曲だな、すごい曲だな、という印象が残りました。

オペラの内容は、ケルトの巫女ノルマが、敵国であるローマの武将ポリオーネとの間に、
子どもを二人もうけているなかで、このローマの武将が、若いケルトの巫女に本気で心変わりしてしまうという話です。

原作のフランスのオペラの題名は「ノルマまたは幼児殺害」ですが、ベッリーニのオペラでは幼児は殺害されません。
ノルマは、自分の子どもを殺そうとはするものの、思いとどまります。
ただ、この自分の子どもを殺そうとする勢いというのは、いろいろと想像できます。

例えば、自分の生んだ子どもが、自分を裏切った男の顔に似ていて、それがドンドン成長してくる。
子どもに罪はないと頭でわかっていても、子どもの顔を見るたびに、裏切った男の顔が二重写しになってくる。
腹の底から何とも言えない憎しみがわいてくる・・・
そういうことも、あるだろうと思います。

“関西のオカン文化”みたいなことを楽観的に言われると、「強すぎる」女性・母親、ノルマのことを考えてしまいます。
裏切った男だけでなく、「お前の顔は、姑(しゅうとめ)そっくりや!」と憎しみを込めて母親からののしられるところまで範囲を広げれば、
子ども時代にオペラの状況と近い経験がある人は、わりといるのではないかと思います。

ギイ・ヨーステン演出の「ノルマ」がよかったです。




                           *


種田山頭火、没後80年ですね。

山頭火の俳句では「不眠」の句が心にひっかかっています。


  どうしてもねむれない夜の爪をきる        (昭和七年)

  ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない (昭和九年)

  こんやもねむれない物みなうごく         (昭和十五年)


2020年から拡大したコロナでわかったことの一つは、
“人間が動きを止めると空気がきれいになる”
ということだと思います。
そうすると、動き回らず、ぐっすり眠ることが善につながる、ということになります。
ぐっすり眠った後で、必要な分だけ動けばいい。

山頭火の「ねむれない」の背景には社会的要因もあると思います。
戦争にどんどん進んでいく社会、「ねむれない」社会の存在がそこにあった。
山頭火の個人的な、あせりや、体力の低下ということも、あったとは思いますが。


昭和15年10月6日の絶筆、辞世の句となった「虫」の三句もいいですね。


  ぶすりと音たてて蟲は焼け死んだ

  焼かれて死ぬる蟲のにほひのかんばしく

  打つよりをはる蟲のいのちのもろい風


「打つ」は「鬱」なのかなと思います。しぐれていく感じがします。
山頭火が亡くなる直前の10月9日に「おれも焼かれる虫の様に、香ひかんばしく逝きたい」と  
言っていたという、虫に心を寄せる山頭火がなんとも言えない感じです。


  酔うてこほろぎと寝てゐたよ  (昭和五年)


の句を思い出します。山頭火は昭和15年10月11日の未明に亡くなります。



山頭火の句を「便所の神様」とされる相田みつを調の書風で書く方がいますが、
それはどうなのだろうと思います。山頭火本人の書を「新潮日本文学アルバム」で見ると、
ますます、どうなのだろうと感じてしまいます。
例えば、やわらかく自然な、良寛さんの書風が山頭火の句にはあっていると思います。



大阪府箕面市の西江寺にある山頭火の句碑を見てきました。


  みんな洋服で私一人が法衣で雪がふるふる


この句碑の俳句を、


  わびしさは法衣の袖をあはせる
           クサイ、クサイ、クサイ  (昭和七年四月十五日・書簡)


と合わせて読むと、私一人が「クサイ、クサイ、クサイ」でもあるんだろうなと思います。
句碑の裏には、昭和11年3月8日に西江寺で行われた句会を記した
山頭火の「旅日記」が刻まれていました。




                          *


             自分の力ではどうしようもないことがあった
             とき、むかしの人たちは、おまじないをとな
             えてきました。
                             中脇初枝

            (鷲田清一 折々のことば 2020・11・21 より)
    

“ リテ・ラトバリタ・ウルス アリアロス・バル・ネトリール ”(天空の城ラピュタ)を思い出します。
「われを助けよ 光よ よみがえれ」という意味だそうです。

  リテラトバリタ (七語)
  ウルス     (三語)
  アリアロスバル (七語)
  ネトリール   (五語)

七三・七五調のリズムなのだと思います、おまじないが、スッと入ってくるように思います。
「ウルス」の三語が、リズムをひきしめていると思います。
種田山頭火の句にも、リズムをひきしめる三語の存在を感じる句があります。


  うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする (昭和13年)

  其中一人いつも一人の草萌ゆる         (昭和13年)

  芽ぶく山をまへにどつしりすわる        (昭和13年)  


※ 其中(ごちゅう)は、山頭火が住んでいた其中庵のこと

句のリズムとして「母よ」「いつも」「まへに」の三語がリズムをひきしめていると感じます。



  シータ: わたし ほかにも たくさん おまじないを教わったわ
       物探しや 病気を治すのや 絶対 使っちゃいけない言葉だってあるの
       亡びのまじない
       いいまじないに力を与えるには 悪い言葉も知らなければいけないって…
       でも決して使うなって
       教わった時 怖くて眠れなかった

  (宮崎駿 監督「天空の城ラピュタ」より)

“ ふたつよいことさてないものよ ”(河合隼雄)ということなのかなと思います。




                           *


映画「愛人 ラマン」のなかに、

  看護婦になるより 娼婦の方がいいわ
  この寮の生徒は看護婦に させられるって
  伝染病患者の世話を させられるのよ

というセリフがあります。
卒業後の将来に対する女生徒の不安という意味だと思いますが、
現在のコロナ禍の中ではダイレクトに感じます。

「愛人 ラマン」は、1929年、フランスの植民地インドシナで、
貧乏な15歳のフランス人少女が、裕福な中国人青年を愛人にする話です。

物語の最後に、少女がフランスに帰国する夜の船上で、ショパンのワルツが聞こえてきます。
聞こえてくるショパンのワルツは、ワルツ第10番 op.69-2です。
夜の静けさのなかで言葉にならない悲しみがあふれてくる様子と、よくあっている気がします。

ショパンのワルツというと、最近では、ロール・ファーブル・カーンの演奏がすきです。
リサイタルでワルツを連続して演奏するのは、ディヌ・リパッティがはじめて以来スタンダードになっている、とのこと。
ディヌ・リパッティの1950年ブザンソン音楽祭のワルツはどれもすばらしいですが、
ワルツ第11番 op.70-1を聴くと、このワルツをこんなに愛らしくひけるものなのかと感じます。
パウル・バドゥラ・スコダ「ディヌ・リパッティに捧ぐ」のライブ録音では、
ワルツが、ワルツらしいワルツで演奏されていて楽しくなります。ワルツ全曲は演奏されていません。

ロール・ファーブル・カーンというと、
シプリアン・カツアリスが講師をした「ショパンを弾く」に生徒役で出演されていました。

「ショパンを弾く」のカツアリスの話のなかで印象的なのは、前奏曲 第15番「雨だれ」の最後の方、81小節の「シ」の♭です。
テキストに、ここから「甘美な疲れ」として曲が終わると書かれています。
この「シ」の♭が身体生理的なイメージで弾かれる音なのだということがわかりました。

ワルツ第6番 op.64-1「小犬」の121小節の「ファ」や、ノクターン第16番 op.55-2の冒頭の「シ」の♭も、
同じように身体生理的な音なのだと思います。

他にも、カツアリスが「カレース、カレース」(撫でて、撫でて)と、鍵盤を撫でる弾き方を見せていて、
こういう弾き方があるんだなと思って見ていました。





                           *


2021年1月30日放送、半藤一利さんのETV特集を見ました。

司馬遼太郎さんと半藤一利さんが語り合った日本の「土地問題」について、2014年の映像、半藤さんの語りが放送されていまいた。
土地をお金もうけの対象にして、自然を破壊して、欲望を肥大させて・・・という話。
半藤一利「語り継ぐこの国のかたち」には『足るを以て知る』という言い方でありました。

「この人も 半藤さんのことが大好きでした」と宮崎駿監督の映像、2013年の「SWITCHインタビュー達人達」の映像が流れました。
半藤さんについて「書いたもの読んでもね 正気ですね。正気でなきゃいけないっていう。」
という宮崎駿監督のお話でした。

ジブリのドキュメンタリーに「夢と狂気の王国」というのがありますが、本当は「夢と正気」なのだろうと思います。