思想家と軍略家が出会う場所、「たるを知る」あるいは「引き際」

  • 私には、まずい「ホットパンチ」しか作れない気がしますが、働いていた会社が倒産した「思いがけずに与えられたこの空白期間」を使って、読書や昼寝や就職活動やらの合間に少し文章を書きたいと思います。
    この文章は「老子」の話でもあり、「銀河英雄伝説」の話でもあり、何かと何かが「出会う」話でもあります。
  • 老子が軍略家だったという説にそって「老子」を読むことで「老子」の世界が開いたような気がしました。
  • そして、その軍略家の老子を「銀河英雄伝説」の不敗の名将ヤン・ウェンリーの言葉「私の志(こころざし)は、ほんとうは軍隊にはないんだ」をダブらせて読むなら、さらに老子の心情まで想像できる気がしました。
  • 誰よりも戦争がうまいにもかかわらず、誰よりも戦争を憎んだ老子。戦争の天才でありながら、本に埋もれた生活を望んだ老子。
    そういった老子の心情を想像しながら「老子」を読むことで、見えてくる何かがあると思いました。
  • 戦況を見るとは、自分の「現在地」を知ることだと思います。自分は今どこにいるのか、勝っているのか、負けているのか、わが軍有利なのか・・・そして、その「現在地」から最終的に問われるのは「引き際」だと思います。
    「あなたは、どこにいます?」とアスターテ会戦の戦没者追悼式典で、婚約者を亡くしたジェシカ・エドワーズが国防委員長のトリューニヒトに問うたこの言葉は、倫理的な意味で問うたのだと思いますが、同時に、指導者として、帝国と同盟の戦争の「現在地」を、「引き際」を、どう考えているのかを問うたのだと思います。
  • 例えば、現状、負けているとして、どのタイミングで逃げるのか、勝っているとして、どのタイミングで満足するのか、逃げるにせよ、満足するにせよ、問われるのは「引き際」だと思います。
  • 第三次ティアマト会戦において第五艦隊司令官ビュコック中将が「勝っておる時に、あるいは、自分でそう信じておる時に後退するのは、女にふられた時に身を引くより難しいだろうと思うよ」と言った時の「引き際」。
  • バーミリオン会戦を前にしたラインハルト・フォン・ローエングラムが「名将というものは、引くべき時期と逃げる方法とをわきまえた者にのみ与えられた呼称だ。進むことと、戦うことしか知らぬ猛獣は、猟師の引き立て役にしかなれん」と言った時の「引き際」。
  • 今「引き際」が問われていることに気づくこと、引く方法を設定し、引くタイミングを判断すること・・・
  • 老子の「引き際」についての記述は、そう意識して読んでみると、「老子」五千余字の中の、あちこちに見られます。その中で、特に注目したいのは四十六章です、以下に老子の心情を想像しながら翻訳します。
  • <「老子」四十六章 翻訳> 例えば、戦争に適した早馬が農地で耕作しているのか、帰ることを許されず軍馬として戦場で働かされ続けているのかで、世の中の乱れは可視化される。引き際を知らぬ指導者によって引き起こされる戦争が、あらゆる所に、ひずみを生み出す。禍(わざわい)は引き際を知らぬ指導者によってもたらされ、それは、無限大に広がっていくものである。引き際を知ることで、禍(わざわい)は常に最小限にくい止めることができる。
  • <「老子」四十六章 原文> 天下有道、却走馬以糞。天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、咎莫大於欲得、禍莫大於不知足。故知足之足、常足矣。
  • この「引き際」(たるを知る)は、思想家の老子と軍略家の老子が出会う場所のように感じます。「引き際」(たるを知る)とは、相手を変化させるのではなく、自分が変化すること。そして、無限大に広がろうとする禍(わざわい)を最小限にくいとめるポイントが「引き際」(たるを知る)なのだと思います。
  • 「銀河英雄伝説」で「引き際」をめぐる対話として印象的なのは、帝国の内戦、リップシュタット戦役が終幕に近づいた時にかわされた、フレーゲル男爵とシューマッハ大佐の対話です。
  • フレーゲル男爵「だまれ!私は命などおしまぬ。この上は、それなりに名のある相手と戦って華々しく散り、栄誉ある帝国貴族の滅びの美学を完成させるのだ」
    シューマッハ大佐「『滅びの美学』ですと?そういう寝言を言っているようだから戦(いくさ)に負けるのです。もうたくさんです!一人で勝手におやんなさい!我々が、あなたの自己陶酔につきあって無駄死にせねばならぬ理由はありません!!」
  • フレーゲル男爵の「命などおしまぬ(…)名のある相手と戦って」は、「老子」四十三章の「名と身といずれか親しき」(「名誉・ことば」と「身・いのち」と、いったいどちらが大切なのか)とダブって聞こえます。ここではシューマッハ大佐が老子の役回りをしているように思えます。自分の名誉を守るために、多くの将兵を犠牲にしようとするフレーゲル男爵の自己陶酔に対して、シューマッハ大佐は、将兵の身(いのち)を守ろうと、今が「引き際」であることを語ったのだと思います。
  • 「老子の役回り」と言ってしまいましたが、実際は、なかなか難しい役どころだと思います。「老子」から感じる老子は、矛盾の固まりだからです。統一なく散在する「小国寡民」を理想とするように見せかけて、統一者の支配を前提にする言葉を平気でならべる老子。君主に無為をすすめながら、民衆を無知無欲の状態に置く作為をすすめる老子。救国軍事会議がクーデターを起こし、自由惑星同盟で内戦がはじまった時、シェーンコップ准将がヤン・ウェンリーに言った「何しろあなたは、矛盾の固まりだから」を思いだします。
  • ヤン・ウェンリーと言えば、第八次イゼルローン攻防戦に勝利し、帝国を追撃しにいった味方を救援に向かった後、敵将であるミッターマイヤーとロイエンタールについて言った「あれが名将の戦いぶりというものだ。明確に目的をもち、それを達成したら執着せずに離脱する、ああでなくてはな」が思い浮かびます。ヤン・ウェンリーは、敵将の「引き際」の見事さを称賛しているのだと思います。
  • このヤン・ウェンリーのセリフは「老子」九章の「功遂げて身退くは、天の道なり」(仕事をなし遂げたら身を退ける、それが天の道というものだ)とダブります。軍略家の老子を考えた場合「攻遂げて」(攻撃を成功させて)と読んで、イメージを合わせるといいかもしれません。楚簡の「老子」は「功」ではなく「攻」になっているそうですし。
  • 「引き際」をどう見極めるのか、それも含めた考え方の基準として、ヤン・ウェンリーにとっては「歴史」、老子にとっては「道」という、何か大きなものを設定しているところに共通点を感じます。
  • ランテマリオ星域会戦の終結後、バーミリオン会戦の開始前、元帥になったヤン・ウェンリーが言ったこと
    「これが成功したとしても、それが歴史に対してどのような意義を持つのか、私には疑問なんだ。つまりローエングラム公を倒すことは同盟にとっては有益だ、だが人類全体にとってはどうだろう、帝国の民衆にとっては、あきらかにマイナスだ。強力な改革の指導者を失い、悪くすれば内乱だ、民衆はまたその犠牲になる、ひどい話さ。そうまでして同盟の目先の安泰を求めなきゃならんのかな。(…)戦っている相手国の民衆なんてどうなってもいい、などという考えかただけはしないでくれ(…)ただ国家という視点だけで物事を見ると視野がせまくなる。前にも言ったが国家なんて便宜上の手段にすぎないんだ、だから、できるだけ敵味方にこだわらない考えかたをしてほしいんだ(…)」
    国家を至上とするのでもなく、勝利を至上とするのでもなく、「歴史」を見つめつつ、現在を見つめているのだと思います。
  • 最後に、個人的なことになりますが、「会社」が急激におかしくなりだしてから、高校生~浪人生にかけて熱心に読んでいた「銀河英雄伝説」がむしょうになつかしくなりました。なぜだろうと考えると、経営者たちと経営者にへつらう一部の従業員がエゴむきだしの「内戦」を社内ではじめたことが、「リップシュタット戦役」とダブったからだと思います。不幸にも、その「内戦」にはラインハルトも、キルヒアイスも、いませんでした。「門閥貴族」同士の「内戦」でした。多数の従業員と取引先を巻き込んだ「内戦」が約3ヵ月続きました。「門閥貴族」の一方は経営者にへつらう従業員をつれて逃走し新会社を設立、「門閥貴族」のもう一方は親会社に逃走、残った「会社」は倒産し、従業員は解雇され、多くの負債を残し「内戦」は終結しました。
  • 会社は「5S」と称して掃除がいきとどいているが、従業員の生活は荒れ放題、何の貯えもなく生活している。経営者は、美しい服を着て、派手な車で出社、規則正しい食生活を守り、金を有り余るほど貯めこんでいる。これを「盗人のおごり」という、道をふみはずしている!
  • 上の文章は「老子」五十三章の後半の現代語訳です。「老子」の言葉を鏡として、現代を映した訳になります。残念ながら、この情景をリアルなものとして感じます。「5S」(ごえす)とは、整理、整頓、清掃、清潔、躾、を組織的に行う活動を言います。以下が上の現代語訳の原文となります。
  • <「老子」五十三章 原文> 朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帶利劔、厭飮食、財貨有餘。是謂盗夸、非道也哉。
  • 従業員としては、「内戦」をもうここで「よし」と見きわめて、「たるを知って」うまく収束させていれば(引き際を知る)、被害を最小にくいとめ、「会社」として次の展開を得られたかもしれない、と考えてしまいます。ただ、経営者としては、「会社」を潰し、経営者同士、お互いに痛み分けとすることが、最良の「引き際」だと考えたのかもしれません。そこには、ブラウンシュヴァイク公が逆上して惑星ヴェスターラントに熱核攻撃をしたように、「会社」に対して、「我が領地」には何をしてもかまわない「権利」がある、という「門閥貴族」的な発想があったのかもしれません。
  • 平成29年(2017年)9月28日
  • 出会った本について


    この「ホットパンチ」を書くにあたって出会った本を書いていきます。「参考にした」というより「出会った」という感じがする本について書きます。
  • 〇 加地伸行「中国学の散歩道」研文出版(2015年)
    この本との出会いが、このサイトの文章を書くきっかけになりました。第五章にある「私は『老子』の中に、指揮官或いは軍略家としての影を見る。それはつまりは、相当の貴族であることを意味する。しかも相当の教養人であることを意味する。」を読んで、私のなかで、老子とヤン・ウェンリーが出会いました。牛にのっている老子とデスクの上にすわりこんで指揮をとるヤン・ウェンリーがダブりました。そして、『老子』と『銀河英雄伝説』を、お互いを鏡のように照らし合わせて読むことで、自分なりに何かがみつかるのでは、と思いました。
  • 〇 蜂屋邦夫 訳注「老子」岩波文庫(2008年)
    「老子」四十六章の原文は、この本からになります。たよりになる本だと思います。同著者部分の「100分de名著 老子×孫子」の第4章に「『老子』はもともと乱世の統治論ですから、謙虚でおとなしい態度ばかりではなく、「負け」を「勝ち」にひっくり返すパワーを秘めた老獪(ろうかい)な面も持ち合わせています。そうした二面性が『老子』の面白さです」という読み方、「二面性」。
  • 〇 小島祐馬「中国思想史」KKベストセラーズ(1968年刊、2017年復刊)
    第三章に、老子の政治思想について「けだし統一国家の形態を認め、同時に原始社会への復帰を願うところに、その不徹底の原因が存するのであろう。」という読み方、「不徹底」。
  • ※ 老子について、「二面性」「不徹底」、という言葉で表現されています。「老子は、矛盾の固まり」と、私なんかは言ってしまいますが、おそらく「矛盾」の出典が韓非子なので、あえて「矛盾」という言葉を避けているのでは?と思いました。解老篇とか喩老篇とかいった形で、韓非子は老子から学んでいるのに、その老子を韓非子の言葉で評価するのはどうなのか、という配慮があるように思いました。
  • 〇 金谷治 訳注「老子」講談社学術文庫(1997年)
    「老子」五十三章の原文は、この本からになります。
  • 〇 福永光司 訳注「老子」ちくま学芸文庫(2013年)
    老子が老子を訳しているような気がしてくる、水平方向に広がるような現代語訳と感じました。
    老子の「大きさ」を現代語訳で読もうとするなら、この福永訳は適任だと思います。
  • 〇 田中芳樹「銀河英雄伝説」全10巻 徳間書店(1982年~1987年)
    この本とは「また、お会いしましたね」という感じです。
    「また、お会いした」系の話として、最近話題になった某氏による「射殺」発言に対して「第6巻 飛翔篇・序章 地球衰亡の記録」に、こういった記載が「準備」されていました。
      包囲軍の兵士に下された命令は、過激をきわめた。「武器を所有し、抵抗するものは射殺せよ。なお、武器を所有すると疑われる者、
      抵抗の可能性ありとみなされる者、逃亡や隠匿の恐れありと判断される者もこれに準じて処置をおこなうべし」
      後日、軍部は、この命令が兵士の自衛と秩序維持の上から見てやむをえざるものであった、と主張したが、
      無差別殺人を煽動する意図は隠しようもなかった。
    あれっ?これって「銀河英雄伝説」であったような・・・というデジャブな話です。
    「銀河英雄伝説」からのセリフの引用は、すべてアニメ版によりました。
    アニメ版のいいところは、ユリアンがつれてきた猫だと思います。ヤン・ウェンリーを恒星とした宇宙には猫が住んでいる、これは的確だと思います。
    そこには、夏目漱石「吾輩は猫である」や、大島弓子「グーグーだって猫である」と、なにか共通した空気が流れている気がします。
  • 平成29年(2017年)9月29日
    • 硝子戸の中の観察、「経緯」と「構図」のイゼルローン


      庄さん何処へ行つてゐたんだいと聞くと、庄太郎は電車へ乗つて山へ行つたんだと答へた。(夏目漱石「夢十夜」第十夜より)
    • 自宅から電車で4時間かけて、私は山へ行きました。
      その往復8時間の電車の中、夏目漱石「硝子戸の中」を読みました。
      たまたま古本屋にあったのを買っただけで、もともと「硝子戸の中」を読もうと思っていたわけではありませんでした。
      しかし読みだすと、非常に面白く、考えさせられました。
    • 夏目漱石「硝子戸の中」は、「私」が「死という境地」について考えながら記憶をたどる話です。
      犬が死ぬ、死ぬ方がいいか生きる方がいいかと女が来る、泥棒が抜刀で来る、いとこの高田が死ぬ、芸者の咲松(さきまつ)が死ぬ、問屋の仙太郎の一人娘が講釈師と好い仲になって死ぬの生きるのという騒ぎがある、子規が死ぬ、佐藤君が死ぬ、芸妓(げいしゃ)が首をくくって死ぬ、美しい楠緒(くすお)さんが死ぬ、郵便の益(ます)さんが死ぬ、家のものが猫を踏み殺す、講釈師の南竜(なんりゅう)が死ぬ、長兄が肺病で死ぬ、そして母が死ぬ。
      さまざまな死が、それぞれに訪れるなか、「私」が人の「親切」を嬉しく感じた話、二十九と三十四の話が印象に残りました。
    • えんえんと継続してもおかしくない「経緯」の中、下女の「親切」を経験した「私」は、人生の「構図」が変わる、というのが二十九の話。
      同じく、中断が期待できない「経緯」の中、高等工業の学生の「親切」を経験した「私」は、判断の「構図」が変わる、というのが三十四の話。
      時系列で生きている中、その時系列にこれまでと違う時系列が入ってきて、継続すると思われていた「経緯」が展開し「構図」が出現する。
      これらの話は「私」が体験を深める話だと思います。
    • 夏目漱石の写生文を読んでいて、想田和弘監督の観察映画「Peace」の特典映像で想田監督が語られていた編集方法を思い出しました。
      まず時系列にシーンごとの編集を行い、その段階では編集されたシーンの羅列にすぎないところから、パズルを始め、映画を完成させる。
      そして、想田監督は、撮影、編集を通じて「セレンディピティ(求めずして、運よく思ってもみない発見をする)」をシーンから発見することを大事にされているようです(想田和弘「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」講談社現代新書 に詳しいです)。
      「経緯」が「構図」に展開していく、「シーン」が「パズル」に展開していく、体験の理解が深まっていく形なのだと思います。
    • 「銀河英雄伝説」で、ヤン・ウェンリーが法的根拠のない査問会の場で考えたこと、
      …やむをえず入った士官学校だったが、もし本当に落第していたら、けっこう歴史が変わっていたかもしれないな。イゼルローン要塞はいまだ帝国の手中にあるだろうし、逆にアムリッツアで惨敗することもなかっただろう、そうなれば死なずにすんだ兵士たちは何万人だろうか、だがその場合は逆に、今ごろはローエングラム公に同盟が滅ぼされていることだってありうる。まったく歴史というやつは…。
      ヤン・ウェンリーは、この時、歴史の「経緯」について考えていたのだと思います。
      ただ、「後世の歴史家」となって、歴史の「構図」を考えてみると、イゼルローン要塞が帝国の手中にあれば、オーベルシュタインはローエングラム公の旗下に入らなかったかもしれない、そうなればヴェスターラントの悲劇は起こらなかったかもしれない、キルヒアイスも死ななかったかもしれない、まったく歴史というやつは…ということにもなると思います。
    • 最後に個人的なこととして、破産した「会社」の報告書を読む機会がありました。
      そこには破産に至る「経緯」は書かれているものの、破産が生じた「構図」は書かれていませんでした。
      虚偽ではないように見えますが、真実性も乏しい、あげくに事実に反するようなことまで書かれている、そういった報告書でした。
      ここで、これまで書いてきたことを逆に考えるなら、「後世の歴史家」のポジションにいるはずの人がこの報告書のような形で「構図」に触れず「経緯」だけを書いている場合、気をつけないといけないことは、その文章は真実性が乏しいか、あるいは、そもそも真実に興味がない何か強いベクトルをかけた文章ではないか、ということだと思います。
    • ある対立、ある事件の「経緯」を時系列で説明し、スルスルと「経緯」をならべたて、それですべてが説明できたとする人がいます。
      しかし、対立や事件には、2人以上の人間の「時間」が含まれているはずです。だとすれば、なぜそれが時系列という単線の「経緯」だけで説明できるのでしょうか。例えば、「親切」とか「セレンディピティ」とか、そういった「経緯」が展開していく場面があると思います。
    • 平成29年(2017年)12月28日

    象は忘れない、銀河英雄伝説より点景


    アガサ・クリスティー,中村能三訳「象は忘れない」を読んで、あれこれと考えたことについて書きたいと思います。
  • 「象は忘れない」は、冒頭の献辞「モリー・マイヤーズへ たいへん親切にしてくださったお礼に」から始まり、
    最終章の「『ありがとうございました、ミセス・オリヴァ』とデズモンドが言った。『ほんとに親切にしていただきました。それに、ずいぶん活躍していただいて。ぼく、知ってるんですよ。ありがとうございました、ムシュー・ポアロ』」で終わる、「親切」の物語だと思いました。
    夏目漱石「硝子戸の中」を読んで、私の「親切センサー」が敏感になっている影響もあると思いますが、この物語は「象は忘れない」をひっくりかえした「親切」の物語なのだと思います。
  • 「象は忘れない」という言葉は、象の記憶力のよさに由来する、イギリスの慣用句だそうです
    この慣用句は「象は忘れない、そして、けっして許さない」というふうに、不親切に対する恨みの言葉へとつながっていくことが多いそうです。
    2章に、インド人の仕立屋が象の鼻に針を入れた仕打ちを、象が何年も覚えていて仕返しをする話がのっています。
    日本で言えば「おてんとうさまが見てるよ」の「おてんとうさま」の場所に象がいて、しっかり記憶しているようなイメージかと思いました。
    因果応報というか。
  • 最終章にある「象は忘れない(…)でも、わたしたちは人間ですからね、ありがたいことに、人間は忘れることができるんですよ」の「忘れる」とは、ポアロたちの「親切」で判断の構図が変わり、シリヤとデズモンドから「責める気」がなくなったことを意味しているのだと思います。
  • 現実にも、こういった救いがあれば、どれだけすばらしいか、という読後感があります。
    個人的なことになりますが、正月に元経営者から”過去は忘れよう”というメッセージが届きました。
    最初の債権者集会すら、まだ開かれていない段階で、です。
  • 「銀河英雄伝説」で、ヤン・ウェンリーを法的根拠のない査問会でいびってきた国防委員長のネグロポンティが、帝国軍の侵攻に伴い査問会を中止し、その後、トリューニヒト体制下で「しかるべきポスト」ほしさにヤン・ウェンリーに土下座して、査問会について口外しないように言うところを思い出しました。土下座するネグロポンティを見た、ヤン・ウェンリーとビュコック大将、
    ヤン・ウェンリー「やめてください、人が見てるじゃないですか。私としては査問会のことなど思い出したくもありませんし、それより戦いに勝つことを考えていますので。」
    ビュコック大将「やれやれ、厚顔無恥の生きた見本じゃな、あれは」
  • 思い出したくもない、のに、忘れることができない、そこでもがくのが現実かもしれませんが、何か救いがたいものを感じます。
  • 最後に、「銀河英雄伝説」から点景と最近の話題を並記してみます。
    〇 アスターテ会戦時の自由惑星同盟、ジェシカ・エドワーズが教員を務めるトゥルヌーゼン・コンセルバトワールの校門前で
      女子学生3人が署名を呼びかける、「文科系、芸術系学部への助成金打ち切りに反対する署名に、ご協力お願いしま~す!」
    国立大学の「文系学部廃止」の話題を思い出します。例えば、未来を予想しようとする場合、「歴史」という文系的なところと「統計」という理系的なところをミックスさせて考えないと、うまくいかないのでは?と思います。定性的なところと定量的なところのサジかげんというか。「文系軽視」ありきでは、まずいでしょうね。
    〇 帝国の内戦に勝利したラインハルトが宰相を兼務し、カール・ブラッケ、オイゲン・リヒターに訓示、
      「体制に対する民衆の信頼を得るには2つのものがあればよい、公平な裁判と、同じく公平な税制、ただそれだけだ」
    某元刑事部長や、某国税庁長官を思い出します。宰相ラインハルトであれば「キスリング!この者を連れていけ!!」で終わりそうです。
    〇 バーミリオン会戦の中、反転を行わず自由惑星同盟のハイネセンに向かい、統合作戦本部を破壊し、降伏を要求した後のミッターマイヤー、
      「これでいいでしょう、権力者というものは、一般市民の家が炎上したところで眉一つ動かしませんが、政府関係の建物が破壊されると血の気を
      失うものですから」
    本物のヘリコプターが墜落しても眉一つ動かしませんが、おもちゃのヘリコプターが着陸しただけで血の気を失ってしまう・・・
    「芸のないやつだな、まったく」と、ヤン・ウェンリーならあきれてしまうような最近だと思います。
  • 平成30年(2018年)1月11日
  •  
  • 八千年の秋、ヤン・ウェンリー家の猫

  •   さあ、知りません。私はもう何も知らないのです。
      本ですか?いや、知ったかぶりばかりで本当はたいして読んだことがなかったんです。
      これからひっそり、のんびりと読むつもりです。
      手はじめの一冊は夏目漱石。ええ、そうです、『吾輩は猫である』。
      やはり、これだけは読んでおかないと。猫として。
      (吉田篤弘 文、フジモトマサル 絵「という、はなし」より)
  • 本を読む読み方というのは「ひっそり、のんびりと読む」ものなのかもしれません。
    「ひっそり、のんびりと読む」本として、『吾輩は猫である』があげられています。猫として。
  •   荘子はきっと面白い人で、彼の周辺にまた面白い人たちが集まって、いつも冗談を言い合っていた。
      苦沙弥先生のまわりの迷亭や寒月やの雑談会のようなものであろう。(…)苦沙弥先生や迷亭先生のように、誰も彼もが超物知りで、
      面白おかしげに、高級冗談を交わしている様子がわかる。
      (長尾龍一「古代中国思想ノート」より)
  • 『荘子』の雑談会の雰囲気と、『吾輩は猫である』の苦沙弥・迷亭・寒月の雑談会の雰囲気には近いものがある、という、はなし。
    アンドレア・デル・サルトについて、荘子が語り合っているかと思うと、『荘子』を「ひっそり、のんびりと」読んでみようという気になります。
    荘子の足もとで、猫が昼寝していそうな気がしてきます。
  • 『荘子』というと、田向正健 脚本、新田次郎 原作の大河ドラマ「武田信玄」が思い浮かびます。
    秦琴(しんきん)の音色や、オープニングの、竜巻(風)・山林(林)・噴火(火)・富士山(山)の映像と音楽も印象的です。
    「最後の出陣」の回で、労咳(ろうがい)で療養中の信玄を、息子の勝頼と孫の信勝が見舞に来る場面。
    信玄が、幼い信勝に昔話を聞かせるという形をとって、勝頼へ遺言をした、と感じられる場面です。
  •   信玄:そうじゃ、今日は、信勝に昔話を一つ聞かせてつかわそう。

      信勝:はい
       
      信玄:昔々のその昔、唐(から)の国に、大きな大きな椿の木がござったそうな。
         その大きなこと、天に至るほどでござった。
         その椿の大木は、八千年をもって春となし、その間、花咲かせ、葉おいしげらせ、元気よく育ったそうじゃ。
         そして、次の八千年をもって秋となし、その間、葉散らせ、実落とし続け、
         また次に来る八千年の春にそなえたそうじゃ。

         その木の下に、春さかりのころ、一人の若武者が立ったそうな。
         その若武者は椿の木を見上げ、その大きさに感心いたし、
         思わず、椿の木に語りかけたそうじゃ。
      
         「この世で一番大きな椿よ、わしもこれから都へ出て、いつの日か、そなたのごとく
         この世で一番偉い人物になってみせる」

         それから数十年がたち、その若武者は望みが通り、この世で一番の国主となった。
         そして、ふたたび、椿の木の下に戻ったそうじゃ。
         この世で一番の国主となった男は、また、椿の木に語りかけたそうな。
       
         「この世で一番の椿よ、わしを見よ、約束通りこのわしはこの世で一番の国主となった。
         されど、そなたは老いさらばえ、春さかりの今日の日に、葉散らせ、実落とし続けておるではないか。
         そなたの命は、いくばくも無く、もはやわが国の栄華、見ることできまい。残念なことじゃ。」
         男は、そう申して去ったそうじゃ。

         それからまもなく、男の国は滅び、男もこの世を去ったそうな。
         男は、椿の木が八千年の秋を生きておることを、露ほども知らなかったというお話じゃ。

         どうじゃ、わかったかな。

      信勝:はい

      信玄:そうか、信勝は利発じゃのう

      信勝:はい

      信玄:人、生きる五十年は短い、されど、八千年の秋あること思えば、なにほども思いわずらうことはあるまい。
         天のみぞ知るじゃ。
  • 『荘子』の「八千歳を以て春となし、八千歳を秋となす」という椿をベースにした昔話です。
    信玄が、勝頼に対して “ これからの八千年の秋を思え、次の八千年の春にそなえよ ”と言っているように思えます。
    「天のみぞ知る」という、「天」と「椿」の間でしかわからない「八千年」という時間を語る信玄に「山の神」の姿が重なって見えるような場面です。
    漢詩をよくし「機山十七首」を後世に残す、信玄の教養を示す場面でもあるように思います。
  • 大河ドラマ「武田信玄」から話を戻したいと思います。
    『荘子』には、八千年という「大きな時間」、雑談をする「人の時間」、そのそばで寝ていると思われる「猫の時間」という、
    それぞれが、それぞれに動いている、三重の時間、という構造があると思います。
    その構造は、夏目漱石「吾輩は猫である」にもあり、大島弓子「グーグーだって猫である」にもあり、田中芳樹「銀河英雄伝説」にもあると思います。
  • 「大きな時間」、例えば、「グーグー」と「銀英伝」から。
  •   悠久の宇宙時間から見たら
      人生は一泊二日の小旅行かもしれないなあ
      (…)人生の小旅行から戻りたどりつく先
      そこもやはり懐かしい場所なのでありましょうか
      (大島弓子「グーグーだって猫である」2巻より)
  •   千億の星々が千億の光を放っている。
      だが、その力は弱く、無限にひろがる空間の大部分は、
      黒曜石をみがいたような暗黒に支配されていた。
      終わりのない夜。無限の虚無。想像を絶する寒冷。
      それらは人間を拒絶はしない。ただ無視するのみである。
      (田中芳樹「銀河英雄伝説」第2巻 野望篇より)
  • 「猫の時間」、例えば、「銀英伝」では、
    ユリアンがつれてきた猫が、カビとホコリを友としてきたヤン・ウェンリー家を掃除する理由になっていると思います。
    猫は、狭い場所に入っていきます。テレビの裏、ソファーの下、家具のすきま、ホコリがたまっている場所に猫は平気で入っていきます。
    猫の「必然の勢い」(吉本隆明「なぜ、猫とつきあうか」より)を、考慮に入れないと猫と人間とは一緒に住めないところがあります。
    ユリアンは単にきれい好きなのでヤン・ウェンリー家を掃除したのではなく、猫を室内飼いするために掃除をした、という、はなしが、
    そこにはあると思います。
    第九次イゼルローン攻防戦で、ヤン・ウェンリーが猫に言った「ユリアンがいないと、お前も不自由だろう」というのは、猫が「不自由」しないよう配慮して、ユリアンがヤン・ウェンリー家で動いていることを示していると思います。
  • そもそも、その「時間」に対する人の姿、例えば、夏目漱石の漢詩から。

      仰瞻日月懸 (ぎょうせんス じつげつノ かかるヲ)
      俯瞰河岳連 (ふかんス かがくノ つらなるヲ)
      (吉川幸次郎 著「漱石詩注」に所収)

    仰瞻(ぎょうせん)は「見あげる」、俯瞰(ふかん)は「見おろす」という意味です。
    なにげないことですが、パソコンで、時間やカレンダーを「見おろす」習慣がつくと、こういった「日月」を、時間を「見あげる」という感覚が、
    うすくなっていく気がします。
    なんでも俯瞰する、上から「見おろす」というのは、人間が、おかしくなってしまう第一歩のような気がします。
    時間の本質は「天のみぞ知る」というところにある、そういった仰瞻感覚は大事な感覚だと思います。人として。
  • 冒頭で、「ひっそり、のんびりと読む」本として、『吾輩は猫である』があがっていました。
    『吾輩』の猫は、こんなふうには読まないでほしいと主張しています。
  •   すべて吾輩のかく事は、口から出任せのいい加減と思う読者もあるかも知れないが
      決してそんな軽率な猫ではない。
      一字一句の裏に宇宙の一大哲理を包含するは無論の事、その一字一句が層々連続すると首尾相応じ前後相照らして、
      瑣談繊話(さだんせんわ)と思ってうっかりと読んでいたものが
      忽然豹変(こつぜんひょうへん)して容易ならざる法語となるんだから、
      決して寝ころんだり、足を出して五行ごとに一度に読むのだなどという無礼を演じてはいけない。
      (夏目漱石「吾輩は猫である」 八より)
  • 「のんびり」読むのは、猫の願いにかなっているようですが、「のんびり」寝ころんでしまうと、
    猫の機嫌は、悪くなりそうです。
  •   虫がすくとか、気が合うとかいうよりも、もっとほかに、人間には、まだわかっていない科学的な法則-たとえば、体質とか、
      気質とかで、ぴったり理解しあえる人間とか、物の考えかた、感じかたがあるような気がする。
      
      私が、それを「波長が合う」というものだから、友だちにおかしがられたり、おもしろがられたりするのだが、
      この自分の波長を、ほかの人のなかに見いだすことが、人生の幸福の一つなんではないかしらと、私はよく考える。
      
      それで、心配になるのだけれど、本を片っぱしから、ぽんぽん読みすてるくせがついてしまうと、そういう本にめぐりあっても、
      気がつかないで、いきすぎてしまうのではないかしら。

      (…)私は、人生をゆっくり歩けば、ひとりや二人は、きっとこんなにわかりあえる
      友だちや作家にぶつかるのではないかと思う。このあわただしい時代に生きている若い人たちを、気のどくに思うと同時に、このごろ、
      足もともあぶなそうに見えてきたじぶんにも、おちつけ、おちつけと、自戒する。
      (石井桃子「家と庭と犬とねこ」 波長より)
  • 「クマのプーさん」を1940年に翻訳し、宮崎駿監督をして「別格」と言われる石井桃子さんは「ゆっくり」読むことを言われています。
    「ゆっくり」歩くことで「ぶつかる」というのが、いい感じです。『吾輩』の猫も喜びそうです。
  • 平成30年(2018年)2月28日

  • 君子の徳は風、妖怪トリューニヒト

  • 「AIは、かしこい」という、その「かしこい」に違和感があり、そのへんを書きたいと思います。
  • そもそも「かしこい」とは、どういうことか?という話になると思います。
    「かしこい」を体現する「かしこい」人について考えると、
    “「かしこい」人は、人を巻き込むのがうまい”
    を感じます。
  • 知らないうちに巻き込まれ、気がついた時には「悪者」になっている。
    そして、もはや孤立無援の状態になっている自分に気づく。
    「しまった!」と思った時には、もう遅い。
    「銀河英雄伝説」の政治家トリューニヒトには、そういった「かしこい」を感じます。
  • ヤン・ウェンリーが、同盟の内戦終結後、イゼルローン要塞に戻る時、トリューニヒトについて言ったこと。
     「自分で大きな嵐を呼び込み、嵐のあいだは身をひそめて、自分は決して傷つかず、
      いつのまにか、より強力な権力を手にしている。そう考えたら、えも言われぬ恐怖にとらわれた」
  • キャゼルヌ少将が、ユリアンの曹長昇進祝いの食事の後、トリューニヒトについて言ったこと。
     「実のところ、最近ヤツがこわいんだ。詭弁と美辞麗句だけが売り物の二流の政治家と思っていたが、
      このごろ何やら妖怪じみたものを感じるんだ。何というか、そう、悪魔と契約を結びでもした印象だ。」
  • トリューニヒトは、42歳で最高評議会議長になっています。
  • 君子の徳は風なり(「論語」顔淵 第十二より)を思い出します。
    君子の徳は風であり、小人の徳は草である。
    草に風があたれば、草は風に巻き込まれ、なびきたおれる。
  • 「君子の徳」という、それでは「徳」とは何か。

      白川静氏の『字統』(平凡社)によれば、「徳」という字は、「省」から発達したらしい。
      ごくごく初期の「徳」の字形は、きわめて「省」にちかいという。
      「省」という字は、本来は目の上に呪(まじない)の飾りをつけて省道(せいどう)を行うことを意味した字だそうだ。
      
      省道(せいどう)とは、道を造ったり整えたりすることだが、「省」の「目」の上にある「少」は、そうした呪いの飾りを象(かたど)った
      ものであり、「徳」に該当する文字も、当初は「彳」と「省」で構成されていた。
      つまり、そもそもは、省道(せいどう)によって示される呪的な威力が、徳といわれていたのである。
      
      (…)そのうちそこに「心」が加わる時代がくる。(…)今日、日本で口にされる徳という言葉は、たいへん痩せている。
      呪的な威力とはいわないまでも、徳と聞いて背筋をのばし、襟(えり)を正す者などほとんどいまい。
      (…)徳という言葉は、共感であれ反発であれ、人を動かす活力をはっきりと秘めていた。
      徳があると周囲が認める人物は、神異の気配をただよわせていた。
      (宮城谷昌光「晏子」第三巻の池田雅延の解説より)
  • トリューニヒトは、「君子」であることを望んだとは思えませんが、「徳」については熟知していたと思います。
    嵐を呼び込む妖怪じみた力、共感であれ反発であれ、なんであれ、ヤン・ウェンリーを恐怖させる「野生の徳」の体現者なのだと思います。
  • 電通の社長に1947年、43歳で就任した吉田秀雄の「鬼十則」に、
      ・ 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる
    が、あります。
    43歳というと、夏目漱石が修善寺で血を吐いた年齢です。
    引きずり回す、巻き込んでいく、君子の徳は風なり、そういったことを熟知していたのだと思います。
    マックス・ウェーバーの「支配」の概念もつけ加えたくなりますが・・・
  • “「かしこい」人は、人を巻き込むのがうまい”というのは、大事な着眼点だと思います。
    その人が、さまざまな理由で、どれだけバカに見えても、「二流」に見えても、巻き込むのがうまい人は「かしこい」人だということ。
    そこに「恐怖」し、巻き込まれるわけにはいかないとなれば、それについて考える時間をもたなければならないということ。
    それについて考え、行動することを「保身」と言い、自分の、あるいは自分の周囲にいる人の、命を守る行為になります。
    不当な「支配」からの保身・・・
    ただ、そうすることで、昼寝の時間は、なくなってしまうかもしれませんが。
  • 平成30年(2018年)3月23日

  • ヤン・ウェンリーという人物、つかみかねる感じ、友とできれば


    キルヒアイスが、ヤン・ウェンリーとはどんな人物かをラインハルトに語った
    「正直、つかみかねております。おそろしいほどに自然体で、ふところ深く(…)敵として、これほどおそろしい相手をしりません、
     しかし、友とできれば、これに勝るものはないかと。」
    という、ヤン・ウェンリーという人物の、つかみかねる感じから考えたいと思います。

    ヤン・ウェンリーという人物について他にも少し列挙すると、
    民主主義の擁護者、民主国家に軍隊が存在するのは民間人の生命を守ることにあると信じている、歴史を研究したい、戦争がきらい、紅茶がすき・・・
    いろいろ列挙はできますが “ヤン・ウェンリーと老子には重なるところがある” という感覚を手がかりに書きたいと思います。

    つかみかねる人物・ヤンと、つかみかねる人物・老子を重ね合わせたところで、つかみかねるだけかもしれませんが、
    そこで、つかみかねるが深まって「つかみかねる構造」のようなものが、見えてくるかもしれません。
    そこに期待しつつ、書き進めていきたいと思います。

    ヤンとラインハルトの会見から。

      ラインハルト:どうだ、私につかえないか。卿は元帥号を授与されたそうだが、卿にむくいるに帝国元帥の称号をもってしよう。
             こんにちでは、こちらのほうがより実質的なものであるはずだが。
      
      ヤン    :身にあまる光栄ですが、辞退させていただきます。

      ラインハルト:なぜだ?

      ヤン    :私はおそらく閣下のお役には立てないと思いますので・・・

      ラインハルト:謙遜か? それとも、私は主君として魅力に欠けると言いたいのか。

      ヤン    :そんなことはありません。
             私が帝国に生をうけていれば、閣下のお誘いを受けずとも、すすんで閣下の麾下(きか)にはせ参じていたことでしょう。
             ですが、私は帝国人とは違う水を飲んで育ちました。飲みなれない水を飲むと身体をこわすおそれがあると聞きます。

    ここで面白いと思うのは、全宇宙をほぼ支配しているラインハルトに対して、ヤン・ウェンリーが「水」のたとえで断ったところです。
    「老子」第八章には、上善は水のごとし(上善若水)と、「上善」を「水」にたとえる章があります。

      「陰陽が交わって物を生む。その始まりは水である。水は有と無の境目であり、始めて無を離れて有に入った状態である。
       老子はこのことを知っていたから、“上善は水のごとし” “水は道にちかし”(ともに八章)と述べたのである」
       (塘耕次「蘇東坡と『易』注」より)

    母親が仏教徒、家庭教師が道教のお坊さんという「恵まれた」環境で育った、中国が宋の時代の詩人、蘇東坡による「水」の話になります。
    万物の始まりとしての「水」、有と無の境目としての「水」、そして、その「水」という言葉を使って返事をするヤン・ウェンリー。

    「老子」には、その「水」が集まってくる「谷」のたとえがあります。
    「老子」第二十八章で、世界じゅうから慕われることを、天下の谿(たに)となる(為天下谿)と言い、
    その「谷」は「老子」第四十一章で、上徳は谷のごとし(上徳若谷)と言われています。

    ヤン・ウェンリーが「わが家」と呼ぶイゼルローン要塞は、帝国と同盟という大きな「山」の「谷間」にある。
    そのような「谷」を好むヤン・ウェンリーと老子とが、重なってくる気がします。

    ユリアン初陣の時、イゼルローン要塞のベンチで昼寝をしていたヤン・ウェンリーが言った、

      辺塞、寧日なく
      北地、春おそし

    の意味を考えて、五言句にすると、

      辺塞無寧日
      北地無春到

    という「○○+無+○○」という形にできると思います。現代語訳としては、
      辺境の要塞イゼルローンには心休まる日がない、こんな宇宙の辺境には春さえなかなかやってこない、やれやれ・・・
    と、なると思いますが、ここでの「無」を、単なる「無」ではなく、老子の「無」と考えると、また違った意味が見えてきます。

      老子の「無」は、そのあとにくる字が意味する物事や行為をいったん否定し、否定した後で、もっと上の次元の物事や行為に到達することを
      示すことが多い。老子の言葉としてよく知られている「無為にして為さざる無し」(第三十七章、第四十八章)がその例である。
      「無状の状」「無物の象」も、人間世界の「状」や「象」を超えたもっと上の次元の「状」や「象」のことを言っている。
      それは、おぼろげでとらえどころがない(「惚恍」)ものである。
      (神塚淑子「『老子』<道>への回帰」より)

    老子と好むところが重なるヤン・ウェンリーは、「無寧日」の寧日、「無春到」の春到、という次元の違う、
    上の次元の寧日と春を、楽しんでいるのではないかと思います。感覚的には、上の次元にもぐっていく、と言えばいいのでしょうか。
    「おぼろげでとらえどころがない」世界、つかみかねる世界、と現実とを、行ったり来たりしているのかもしれません。

    私が学生のとき、心理学者の河合隼雄先生の講演をきく機会がありました。
    そこでの話ですが、河合先生のカウンセリングで状態がよくなったかたに「河合先生は、どういった指導をされたのですか?」という質問があったそうです、河合先生は「一切の指導をしなかった、ということです」と返事をされたそうです。
    この「一切の指導をしなかった」にも、老子の「無」、「無指導」の指導、という意味が含まれているように思います。

                             *

    「友とできれば」という「友」については、同盟軍最後の戦いマル・アデッタ星域の会戦で、ビュコック元帥がラインハルトに言った言葉が印象的です。

      ビュコック:えらそうに言わせてもらえば、民主主義とは対等の友人を作る思想であって、主従を作る思想ではないからだ。
            わしはよい友人がほしいし、誰かにとってよい友人でありたいと思う。
            だが、よい主君も、よい臣下も持ちたいとは思わない。
            だからこそ、あなたとわたしは同じ旗をあおぐことはできなかったのだ。

    ただし、「友」は、「民主主義」という環境のなかで、すさんだ現象を生みもします。

      《三重の中3殺害容疑の少年について「クラスの人気物がなぜ」という論調ばかりなのがちょっと気持ちわるい。
      背景に「仲間の多い若者が最高」「孤立者は劣等人種」「少年犯罪は孤独の副作用」みたいな感じの「友情原理主義」の
      存在を感じますだよ》(…)この凡庸なツイートは、数日後には5000件近くリツイートされた。ということは、
      メディアの「なぜ」報道に違和感を抱いた人間がそれだけ多かったということだ。
       
      それだけではない。私のツイッターに寄せられたリプライの中には、「スクールカースト」という言葉を使って
      今回の事件の報道への反発を語っている書き込みが際立って多かったのだ。どういうことかというと、
      「要するにマスコミの人間は、スクールカーストの上位者ばかりだから、上から見た報道しかできない」ということらしいのだ。
       
      (…)そのスクールカーストの中で暮らしている少年たちや、それをくぐり抜けて大人になった若者たちの見方によると、
      「スクールカースト上位者」は、「スクールカースト下位者」を永遠に差別するものらしく、少年犯罪報道に見られる偏向は、
      そのカースト下位者に対する差別そのものだというのだ。
      「スクールカースト下位者であった私からすれば、逆にやたら友だちの多いいじめっこ体質の奴の方が、少年犯罪の犯人像として
      しっくり来るんですけどね」なるほど。
      (小田嶋隆「友だちリクエストの返事が来ない午後」より)

    「やたら友だちの多いいじめっこ体質の奴」というところに、トリューニヒトを感じます。
    そしてそれは、ラインハルトが、ヤン・ウェンリーに言った、
    「民主共和制とは、人民が自由意志によって自分たちの制度と精神をおとしめる政体のことか」
    というところと通じるものを感じます。

    裏切者のユダに、イエスは「友よ」と語りかけたそうです。(「聖書」マタイによる福音書26章50節)
    「友」という言葉の成熟と、「民主主義」の成熟には、相関関係があるような気がします。

    平成30年(2018年)5月5日